9.悲しみは誰でも持っている。『でんでん虫の悲しみ』(新美南吉)

こんにちは。

サッカーワールドカップ、コロンビア戦!

日本のパス回しが素晴らしかったですね。

視聴率は40%台だったそうです。

 

今回は、先日ラジオで聴いた童話を。

(アイキャッチ画像引用:新樹社)

 

『デンデンムシノ カナシミ』(新美南吉)

 

 

まずは、童話の全文を記します。

一匹のでんでん虫がありました。
ある日、そのでんでん虫は大変なことに気がつきました。
「私は今までうっかりしていたけれど、私の背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっているではないか」
この悲しみはどうしたらよいでしょう。

でんでん虫は、お友だちのでんでん虫のところにやってきました。
「私はもう生きていられません」
とそのでんでん虫はお友だちに言いました。

「何ですか」
とお友だちのでんでん虫は聞きました。

「私はなんという不幸せな者でしょう。私の背中の殻の中には悲しみがいっぱい 詰まっているのです」
と初めのでんでん虫が話しました。

すると、お友だちのでんでん虫は言いました。
「あなたばかりではありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです。」

それじゃ仕方ないと思って、初めのでんでん虫は、別のお友だちのところへ行きました。

すると、そのお友だちも言いました。
「あなたばかりじゃありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです」

そこで、初めのでんでん虫はまた別のお友だちのところへ行きました。
こうして、お友だちを順々に訪ねていきましたが、どのお友だちも同じことを言うのでありました。

とうとう、初めのでんでん虫は気がつきました。

「悲しみは誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の悲しみをこらえて生きなきゃならない」
そして、このでんでん虫は、もう嘆くのを止めたのであります。

 

 

原文は、すべて分かち書きのカタカナで書かれています。
勝手ながら、私がカタカナを漢字にし、分かち書きをなくして表記しました。

原文はこちらをクリック→青空文庫

朗読はこちらをクリック→YouTube

 

自分だけではない。みんな悲しみを背負っている

 

ジーンときました。

初めのでんでん虫は私と同じだと感じました。

 

 

>「私は今までうっかりしていたけれど、私の背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっているではないか」

悲しみがいつも自分の心を覆っているという事実に気付くことがあります。

 

>この悲しみはどうしたらよいでしょう。

悲しみをどうにかして心から追い出したいともがく日々です。

 

>「私はもう生きていられません」

この悲しみがある以上、自分は一生不幸だと暗くなることもあります。

 

>「あなたばかりではありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです。」

明るそうに見える人、元気で何の苦しみもない人のように見えても、実はだれしも悲しみを抱いているのですね。

悲しみを持つのは自分だけではない、

みな同様なのだ、

と、でんでん虫は気付いたのですね。

 

>「悲しみは誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の悲しみをこらえて生きなきゃならない」

そうなんです。

生きるとは、良いことばかりではないです。

むしろ、マイナスの出来事に出会うことが多いくらいかもしれません。

プラスもマイナスも両方を背負いながら、生という営みを続けているのですね。

 

>そして、このでんでん虫は、もう嘆くのを止めたのであります。

『嘆くのを止めた』とは、

きっと、悲しみも抱えながら生きていくということを受け入れたのだと思います。

 

 

コモンヒューマニティー:Common Humanity

 

でんでん虫の気づきは、このサイトのテーマであるコモンヒューマニティー(Common Humanity)と同じだと思いました。

悲しみと苦悩の真っ最中にいるときは、自分だけが苦しんでいると思いがちですね。

こんなとき、「自分だけじゃない」と考えるだけで、心が落ち着いてくると思います。

コモンヒューマニティー(Common Humanity)にご興味がある方は、このサイト内の固定ページもご覧いただけましたら幸いです。

 

 

受け止める・受け入れる・受け流す

 

悲しみや苦難に出会ったとき、どのように付き合っていますか?

最初は、拒絶したり追い出そうとしたりして、私はあがきます。

次に、逃げ出そうとします。

 

でも、あがけばあがくほど、逃げれば逃げるほど、悲しみと苦難の穴に落ち込んでしまいます。

 

このとき、便利な言葉を思い出すように心がけています。

「受け止める」と「受け入れる」と「受け流す」です。

 

てんとう虫は、『私は私の悲しみをこらえて生きなきゃならない』ことにしました。

この『こらえる(堪える)』は何だか道徳的すぎる印象を私は持ちました。

 

『こらえる(堪える)』を、「受け止める」と「受け入れる」と「受け流す」に替えると、心が軽くなる印象になると思います。

「受け止める」と「受け入れる」と「受け流す」を使い分ければ良いと考えます。

 

事実は「受け止める」。

悲しい心は「受け入れる」。

人からの心ない発言や態度は「受け流す」。

 

よろしかったら、この三つの言葉を使い分けながら、悲しみと付き合ってみてくださいね。

 

 

(画像の洋画『カサブランカ』の主人公は、三つをうまく使い分けて悲しみと付き合ったと思います)

 

今までの投稿一覧

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

3.今を生きる

4.「棚上げ」という魔法

5.母を亡くしました

6.認知症だった母への罪悪感

7.罪悪感を手放す具体的な方法

8.罪悪感と怒りとは同じものかもしれません

9.悲しみは誰でも持っている。『でんでん虫の悲しみ』(新美南吉)

 

 

 

 

 

 

 

 

8.怒りと罪悪感は同じものかもしれません

ひらめきました。

閃きました。

ひらめいてしまいました。

 

職場に向かう自動車の中。

今朝、突然です。


「怒りと罪悪感は、同じことの裏表に過ぎない!!!」

 

怒るとき

 

 

あなたはどんな時に怒りますか?

私は次の二つの時です。

 

・まずは、自分の期待通りの行動を相手がしてくれないとき。

・次は、自分が頑張っているのに、相手が自分を認めてくれないとき。

 

一方、罪悪感が湧くときはどんなときでしょうか?

 

罪悪感を持つとき

 

 

罪悪感を強く感じる時は、こんなときです。

・まずは、自分のルールに反する行動を自分がしたとき。

・次に、自分の罪に必要以上にこだわり、自分を責めたとき。

 

怒りと罪悪感は同じかもしれない

 

 

 

怒るときも罪悪感を持つときも、根は同じように感じます。

・怒りは、相手の行動や感情をコントロールすること。

・罪悪感は、立派な理想像の自分と現実の自分とを比べること。


自分ではどうにもならない相手をどうにかしようと思ったときに「怒り」がわき、

現実にはあり得ない理想像に自分を近づけようとしたときに「罪悪感」がわきます。

どちらも、自分自身に執着しすぎてしまい客観的な見方ができていないという点では同じですね。

エネルギーが外部に向かうと怒りになり、
内部に向かうと罪悪感におちいるという見た目の違いはありますが、

頭と心の仕組みは同じだ思いました。

 

「ひらめいた」は、大仰でしたでしょうか?

そうかもしれません。

 

でも、私にはピカッとひらめいたとしかいえない体験でした。

 

 

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6.認知症だった母への罪悪感

7.罪悪感を手放す具体的な方法

8.罪悪感と怒りとは同じものかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7.罪悪感を手放す具体的な方法について

こんにちは。

当地では過ごしやすい気候が二日間続いています。

皆さんがお住まいのところも穏やかな天気だといいですね。

 

今回も前回に引き続き、罪悪感について述べます。

 

「罪悪感を手放す方法」がテーマのサイト

 

数日前。

私、いけないことをしました。

人さまには言えないことです。

自分がこんなに悪い人間だったなんて、、、、、。

罪悪感と情けなさでずっと凹んでいました。

 

最初の二日間は、罪悪感の池にどっぷりと浸かっておりました。

 

 

三日目。

「このままじゃいけない」
「なんとか凹みから立ち直る方法がないだろうか?」
と考え始め、
『悪いことをしたとき』でネット検索をかけてみました。

すると、一番上に表示されていましたのが『罪悪感を手放す方法』というページでした。

 

ゆっくりと拝読するうちに、心が落ち着いてきました。

このサイトに出会えて良かったです。

『罪悪感を手放す方法』の作成者さま、ありがとうございます。

 

サイトに書かれていたこと(引用)と、感想を併記したいと思います。

 

罪悪感を抱く時って?

 

 

まずはサイトの引用から。

 

ちょっとした嘘をついてしまったこと、信号無視をしてしまったことから、誰かを傷つけてしまったこと、誰かを救えなかったことまで、私達の中にあるルールに違反してしまったことが原因です。

・嘘をついてはいけない

・人を傷つけてはいけない

・家族は助け合わないといけない

法律で決められていなくても、私達はこのようなルールを無意識的に感じて生きています。

ルール違反によって罪の意識を感じること自体は、あなたが『正常』であることを示しています。

 

なるほど!

長い人生の中で社会や自分が決めたルールに反した時に、罪悪感が生れるのですね。

 

ところが、時として必要以上に自分に罪の意識を感じてしまうことがあります。

法律の中でも、罪にも程度があり、罰にも程度があります。必要以上に罪の意識を感じたり、自分を罰する必要はないのです。

償いが終わったのであれば罪悪感を手放しても良いのです。

罪悪感を手放す方法をシェアしたいと思います。

 

そうなんです。

必要以上に自分を責めているのかもしれません。

『償いが終わったのであれば罪悪感を手放しても良いのです』。

『手放す』っていい言葉ですね。

なんか心が軽くなり、光がさしてきそうです。

でも、償いをする機会があるのでしょうか?
とも思います。

 

罪の重さに点数をつける

 

 

やってはいけない悪いことはたくさんありますが、ただ『悪い』とだけ考えてしまうと、実はたいしたことではないのに強い罪悪感を感じてしまうこともあります。

例えば人殺しを100点とすれば、歩道での信号無視は3点くらいかもしれません。

点数をつけるときのコツは、他の罪と比べることです。

 

『実はたいしたことではないのに強い罪悪感を感じてしまうこともあります』。

そうですね。

そういう傾向が私にはあるようです。

あれもこれも同様に自分の非を感じてしまい、何にでも同じような大きさの罪悪感を感じることがあります。

 

白か黒か、0か100かという発想ではなくて、その大きさの程度を冷静に考えたいと思いました。

気に病むことが少なくなりそうです。

 

補償することで罪悪感を手放す

 

 

罪悪感を消す最もスタンダードな方法が『補償』です。
補償=損害・費用などを補いつぐなうことです。

「やったことは取り返しがつかない」と思うかもしれませんが、あくまで「同じくらいのもの、同じくらいのこと」で補償するのがポイントです。

他人のものを壊してしまって損害賠償する場合、同じものを返すことはできないので、だいたいは『損害と同等』のお金で補償しますよね。

心の問題の場合、お金で解決しようとするのは基本ダメですが、同じくらいの価値を相手に与えることで補償しましょう。

 

そうか、補償するという手があったのですね。

 

一度犯した罪は取り消せないと思い込んでいましたが、補償することで幾分かは罪の意識が減りそうです。

 

直接の相手に補償が不可能であっても、他の人に優しくするように心がけます!

 

「〇〇しない」ではなく、「○○する」

 

 

行動を変えるコツは、反対の行動を意識する、ということです。

例えば「嘘をついて人を傷つけてしまった」場合、「嘘をつかない」と決めただけでは意識するのが難しく、行動を変えずらいです。

「嘘をつく」の反対は「正直に話す」です。

「嘘をつかない」ではなく「正直に話す」と心がければ、いつも行動に結びつけられますよね。

会話の度に「正直に話す」ことを意識すれば、その度に心の傷は塞がっていき、痛みは消えていきますよ。

 

これ、いい工夫ですね。

早速、自分の行動に取り込みたいです。

 

「嘘をつく」の反対は「嘘をつかない」ではなく、「正直に行動する」。

プラスに考えることで行動が出来て、気持ちが楽になりそうです。

 

誰かに話を聞いてもらって、自分を許す

 

 

キリスト教、特にカトリックでは、教会の仕事として『懺悔』を聞くということがあります。

自分で自分を許せない時、代わりに神に許しを乞うのです。

特に重い罪悪感を感じているとどうしても自分が許せないということもあります。

かといって、友人に話すことも難しいですよね。

そんな時は、お寺の住職などに相談すると話を聞いてくれることもあります。また占いをしてもらった時などについでに懺悔してしまうのも手です。最近では、電話で「話を聞く」サービスもあります。どうしても辛い時にはこれらの方法を試してみてください。

 

これって、「自分も人も共通」(Common Humanity)と似ていますね。

「自分も人も共通」(Common Humanity)については、こちらをクリック

罪悪感で凹んでいるときは、「この世の中で自分だけが悪いのだ」と思い込むところがあります。

自分だけでない!!!

皆がだれしもが罪悪感で悩むものだと想像するだけで、罪悪感に冷静に向かえそうです。

 

意外と相手は気にしていない

 

 

 

私達は、自分がやってしまったことで、相手がどのような傷を受けたのかよく知らないまま、自分だけで一方的に罪悪感を感じつづけてしまうことがあります。

可能であれば、相手の気持ちを確認してみましょう。普通に話しができる相手であれば、「あの時○○と言ってしまってごめん」などと謝罪する形で聞けば悪い方向には進みません。

以外と相手は気にしていなかったりして、スッキリすることもありますよ。

 

そうかもしれない!

自分が相手を傷つけたと決めつけて、自分が勝手に罪悪感を抱いているだけのことって、ありえますね。

 

「しまったという感情→自分が悪いという評価・判断→罪悪感」という流れで罪悪感が膨らみます。

しかし、「自分が悪いという評価・判断」は、思い込みによる余計な判断かもしれません。

このことは、「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)に通じる発想だと思いました。

「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)については、こちらをクリック

 

他人からの相談だと思って考えてみる

 

 

 

私達は自分の中で何度も繰り返し考えるうちに、いつの間にか問題を大きく考えすぎる傾向があります。

客観的に判断する方法として、もし自分が友人から同じ悩みを相談されたらどう思うか?考えてみるといいですよ。

「あなたは全然悪くないじゃん!」「気にしすぎ!」と思うかも知れないし、「悩んで当たり前」だと思うかも知れません。

もし「気にしすぎ」「あなたは悪くない」と答えるのであれば、実際にあなたが気にする必要はありませんし、あなたは悪くありません。

 

なるほど、なるほど。

自分自身を責め続けると、頭がマイナスの感情で占められてしまいます。

そんな時ほど、友人から同じ悩みを相談されたと仮定して、自分だったら友達にどのようにアドバイスできるかと想像してみるゆとりが大切ですね。

 

 

自分を責めるだけではなく、自分を慰めることも必要です。

それでこそ、心のバランスが保たれますね。

このことは、まさに「自分への思いやり」(Self=Compassion)です。

「自分への思いやり」(Self=Compassion)については、こちらをクリック

 

自分だけのせいではない、客観的に責任分担する

 

 

罪悪感が完全に消えるわけではありませんが、責任の全てを自分が背負うことは避けないといけません。

「自分も悪かった」と思うかもしれませんが、交通事故でも8:2、6:4など責任の分担があります。冷静に考えた場合、自分が100%悪いことはまずありません。

「3割は自分が悪かった」と思うだけでも、心のしこりが小さくなります。罪悪感を軽くすることができます。それは責任転嫁ではなく正当な権利です。

 

『それは責任転嫁ではなく正統な権利です』。

私にとっては、目が覚めるような言葉です。

 

 

罪悪感を持つときは、「全ての責任は私にある」と考えがちです。

しかし、冷静に考えてみれば、起こった出来事の責任は、何も自分だけにあるはずはありません。

罪悪感の池に自らを落とす前に、冷静に考えたいです。

 

救いと償い

 

 

 

私達は助け合って生きているのと同時に、傷つけあって生きています。

「人に迷惑をかけてはいけない」
と多くの人は考えていますが、親密な関係であるほど、迷惑をかけまくっていますよね?でもその分許し合って助け合っていればそれで良いのです。

嫌われないように、迷惑をかけないように、とだけ考えて生きていたら誰とも仲良くなれず、とても殺伐とした社会になってしまいます。

たとえ誰かを傷つけてもその分他の人を救ってあげればいいのです。

 

心に染み入る言葉です。

 

傷つけあって生かされている。

人を助け、助けられて生かされている。

これが人の世ですね。

 

傷つけることを怖れていたら、部屋に引きこもるしかありません。

 

『たとえ誰かを傷つけてもその分他の人を救ってあげればいいのです』

なんて優しい言葉でしょう!!!

 

例えば相手が故人のような場合、その本人に対して罪を償うことができないこともあります。

その場合、相手の家族に対して何らかの償いをすることも立派な償いです。

相手が大切にしているものであれば、本人でなくてもいいのです。

また今すぐに何かを行うことが難しい状況もあります。その場合でも、いつか○○という形で償うと決めておけば良いのです。

罪悪感はあくまで自分の心の問題です。強く誓うことは、実際の行為と同じ意味があります。

 

自分と他人、人間と自然、地球と宇宙。

それぞれがバラバラに存在するのではなく、どこかでつながりあって存在している。

そんな光景を想像しました。

 

 

 

罪悪感という自分の頭にある悩みだけに執着せず、心を開けて世界と関わりたいものです。

 

「罪悪感を手放す」という選択をする

 

 

私達が感じる罪悪感のほとんどは人間関係の問題だと思います。ですが大切なことは、罪悪感を感じているのはあくまで自分だということです。

自分自身が「罪悪感を持つ」という選択をしているのです。

だから自分自身が「罪悪感を手放す」と選択すれば、手放すことができます。

 

自然に罪悪感を抱くのではなく、自分の考え方の癖が罪悪感を大きくしているのかな、と思いました。

「罪悪感を手放す」という覚悟を決めたいです。

 

もちろん言うのは簡単でも行うのは簡単なことではありません。

それでも償えない罪はなく、手放せない罪悪感はありません。

やるべきことをやる度に、心は少しずつ軽くなっていくはずです。

 

全部の言葉を太文字にしたいくらい、ありがたい言葉です。

 

 

自分が勝手に作った罪悪感に浸りこんで、現実的には何も行動できていない自分に気付かされした。

 

やるべきことをコツコツ積み重ねる行動によって、心を軽くしていきたいです。

 

罪悪感を持つのは、自分が傲慢なのかも?

 

最後に。

 

 

『罪悪感を手放す方法』を拝読し、引用に沿って感想を書いているうちに、思い浮かんだことを書きます。

 

「罪悪感を持つ人は謙虚な人だ」と思ってきましたが、ある意味では傲慢な考えをなさっているかもしれません。

 

人は助け合って生きています。

人の助けなしでは生きていけません。

 

人は迷惑をかけあいながら生きています。

誰にも迷惑をかけずに生きてはいけません。

 

自分の力だけでは生きていけない存在が人間です。

 

良い点もあれば、悪い点も持ちながら生きるのが人間です。

 

そこを、「自分は何に対しても正しくあろう、清くあろう、良い人であろう」と過度に思い続けると罪悪感が大きく膨らみます。

 

全てのことに正しく、清く、良いである人。

こんな人、どこを探してもいません。

みんな、どこか悪い点があり、どこか濁っているのが人間です。

そんなところを抱えながら生きているのが人間です。

 

自分の醜いところも、かけがえのない自分の大切な一部分です。

みにくい自分を無理やり自分から追い出す必要はありません。

 

常にきれいな自分であろうとするのが傲慢です。

自分に謙虚でありたいです。

自分を尊大に大きくする必要もなければ、卑下して小さく見せる必要もありません。

誰に対しても、自分自身に対しても、等身大の自分でありたいです。

 

 

 

なお、引用の元サイトにご関心を持たれた方は、こちらをクリック

(トップページ『ココロマニュアル』のURLは、http://kokoromanual.com/)

 

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7.罪悪感を手放す具体的な方法

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6.認知症だった母への罪悪感

今回は、母の晩年を書きます。

 

母からの電話にびっくり

 

晩秋。

「天井に小さな大人が何人も歩いている」と母から電話がかかってきました。

父に電話を掛け直すと、「ここはどこ?なんで自分がこんなところにいるの?」、「家に帰りたい」とも母は言っていると知りました。

 

 

最初は、心配性の母のストレスが高じたのだろうと思いました。

しかし、ネットで調べると、母の言動は認知症の初期症状に限りなく近いものでした。

ショックでしたね。
足がすくんでしまいました。

慌てて実家に駆けつけました。

 

ミカンを投げつける母

 

物忘れ、怒りっぽい、今がいつかが分からない、ここがどこか分からない、家事ができない、テレビの映像の意味が分からない、、、、、。

診察を母に勧めるのですが、「自分は健康だ。自分のことを何だと思っているのか!」の一点張り。
しまいには、ミカンを私に投げつけます。
あの穏やかで優しい母がです。

いまから思えば、自分の変化に母は実は気付いており、不安だったからこそかたくなに診察を拒否したのでしょう。

 

 

初めて母が診察を受け入れてくれたときは、もう年が明けていました。

 

母は大病院は嫌がるので、小さな診療所に連れて行きました。

記憶テスト(?)と脳のMRI。

母を待合室に残し、私だけが医師に呼ばれました。

医師が言うには「記憶テスト結果は、健常者が10点ならば、お母さんは2点です」。

さらに、MRI画像を示しながら「脳のこの部分がかなり委縮しています」。

変かもしれませんが、この時点になっても認知症でなければいいと密かに期待している私でした。

しかし、記憶テスト結果とMRI画像を医師から突き付けられると、母が認知症だと認めざるを得ません。

辛かったです。

 

 

介護の日々

 

この時から、いわゆる介護が始まりました。

 

 

今から思えば、
「母が『安心して過ごせる』日常生活を送れるようにはどうしたら良いか」
を中心に考えればよかったのですね。

しかし、当時は、
「母の認知症の進行を遅らせ、『ちゃんとした言動』が続くようにはどうしたら良いか」
と考えてしまいました。

その結果、薬の服用を嫌がったりオムツ交換を嫌がったりする母に対して、私は叱ることが増えてきました。

母が嫌がる→私が叱る→母が混乱し不安になる→さらに嫌がる→私が叱る。
この悪循環ループに陥っていました。

先行きが分からない不安と共に、母をどうにもしてあげれない無力感と焦り。

この無力感に耐えられず、母を叱っていたのかもしれません。

母の不安な気持ちを忘れ、私のことを中心に考えていました。

 

数カ月が経ち、母に手を挙げるようになりました。

「何をするの!」

その母の声でハッと我に返り、母に「ごめん」と謝ります。

母は「いいえ、あなたは悪くはないの」と言い返します。

子供に手を挙げられ、それでも子供を許す母。

 

私、鬼です。

 

その間、私は罪悪感にとらわれていました。

母を安心させる対応をしていたら母はイキイキとした生活が出来たのではないか?

自分の母への対応は、逆に不安感を与えていただけではないか?

 

これではお互いがつぶれる。

 

施設入居

 

母を施設に入れました。

最初は、自分が施設にいること自体に納得できず不安定な言動でしたが、次第に落ち着きを取り戻していきました。

二日に一回程度見舞う生活が数年続きました。

認知症が進むにつれ母は穏やかな表情になっていきました。

それが唯一の救いでした。

 

 

認知症の役割

 

母は若いころから心配性でした。

しかし、認知症になってからは心配事を忘れたかのようでした。

その意味では、心配することを忘れるために、認知症になったのかもしれません。

 

母のことを思い出すたびに、自分の罪悪感が首をもたげます。

でも、与えられた状況の中で母によかれと思い頑張ったこともあります。

罪悪感を持ちながらも、一方で自分を慰めたいと思います。

 

ご自身を責め続けることに疲れる方がいらっしゃいましたら、
固定ページの1「自分自身に優しくする」(Self-Kindness)をご覧願います。
こちらをクリック

 

 

 

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6.認知症だった母への罪悪感

 

 

 

5.母を亡くしました

こんにちは。

最近、母を亡くしました。

苦労して私たち子どもを育ててくれた母です。

施設と病院との往復を数回繰り返し、最後は病院のベッドで息を引き取りました。

 

 

母が死んだら、うろたえて立てなくなるだろう

 

高齢の母が亡くなる時のことを、何年も思い描いていました。

その日が来ることを怖れていました。

自分は取り乱してしまい、平常を保つことができないと思っていました。

 

ある日、医師から「そろそろ覚悟をしておいてください」と言われました。

ショックで、レントゲンの写真を見つめることが出来ず、医師の顔を見ることさえできませんでした。

どのように自宅まで帰ったのか思い出せないくらいです。

 

 

それから一週間。

医師から「すぐに病院に来てください」との電話が携帯電話に入りました。

母は荒い息をしていました。

 

夕刻。

母の息が静かになり、数回息が止まったりまた息を始めたりしました。

そして、数分後に胸の動きがとまり、再度息をすることはありませんでした。

 

不思議なのですが、落ち着いていました

 

 

いやー、自分でも奇妙だと思ったのですが、母の死から今まで、心に波風が立たず静かに過ごしました。

大きな悲嘆と空虚感、更に母を上手く介護できなかったという罪悪感に取り込まれてうろたえると思っていた自分でしたが、穏やかな気持ちで母との別れができました。

 

 

さらに、通夜や葬儀も喪主として滞りなく終えることができました。

そして、初七日の法要が過ぎても、心は比較的穏やかです。

もちろん、気持ちが母のことが頭と心全体を占め、車のキーが見当たらず探しまくり車体の上で一日経ってから見つけたなど、いくつもの物忘れと動揺がありました。

セレモニホールへ車で向かうつもりが、全然別の方向へ走らせたこともありました。

 

誰でも例外なく最後を迎えること、残された者は悲しいもの

 

何故、私は穏やかに母の最期を迎え入れ、その後も落ち着いているのか?

自分なりに思いますのは、「生きとし生けるもの、誰もがいつかは亡くなるということ」「残された家族はだれしも寂しいもの、そして動揺するもの」ということは、人類共通のものであるということを受け入れていたからではないかと推察します。

このことが、「自分も人も共通」(Common Humanity)ということなのかもしれません。

「自分も人も共通」(Common Humanity)については、固定ページの2をご覧願います。
こちらをクリック

 

 

自分に沸いてくる感情を否定せず受け止めること

 

母の症状が芳しくなく心配なこと、母が亡くなり動揺したことを、私はショートメールで遠くに住む知人に伝えていました。

「自分が平常心を失なったら、電話するよ。その時は話を聞いてね」という文面すらメール送信していました。

いい歳をした大人がそこまで弱音を吐くかと思われるかもしれません。

また、母の生前からそんなメールを送るのはいかがなものかとお感じの方もいらっしゃることでしょう。

でも、自分は自分だけで母の病状と死を受け止めることが出来ないと予測していました。

自分は情けないほど子供っぽく弱い人間です。

それが自分です。

そんな自分のありのままを受け入れ、時には人さまにさらけ出すことが良かったのだと思います。

 

 

 

目の前のことだけを見て、
今できることだけをする

 

通夜・納棺・葬儀・お骨拾い・参列者への挨拶・初七日の法要は、慌ただしいもので、決めなければいけないことが多くあっという間に過ぎていきました。

儀式は全てが初めてのこと。

先のことは何も考えず、目の前のことだけを考えて行動していました。

今できることだけに心を傾けて行動していました。

 

このことは、「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)ことだと後で思いました。

「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)については、固定ページの3をご覧願います。
こちらをクリック

 

 

 

 

最後に。

 

「悲しみや悔いは、死別からしばらく経ってふいに訪れるものだ」と伺いますので、私の心もこの先どうなるか今は分かりません。

急に落ち込むこともあるかもしれません。

その時は落ち込む自分を否定せず、しばらく落ち込もうと思っています。

 

 

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4.「棚上げ」という魔法

5.母を亡くしました

 

4.「棚上げ」という魔法

こんにちは。

5月。
若葉のころですね。
緑色と一言で言っても、いろいろな緑色があります。
そんな緑が幾重にも重なっている風景を見かけると、すがすがしい気持ちになります。

さて、今回は「棚上げ」という言葉について、思うところを書きます。

 

「棚上げ」とは?

 

デジタル大辞泉によりますと、

 需給の調節などのため、一時商品を市場へ出さないこと。「棚上げ株」
 問題を一時的に未処理・未解決のままにしておくこと。「法案を棚上げする」

という意味だそうです。

私が注目しますのは、2番目の意味です。

「棚上げ」とは、問題を一時的に未処理・未解決のままにしておくこと。

 

課題や心配で心がつぶれそうなとき

 

 

・仕事で解決しなければいけないことがあるのに、今すぐには身動きできない。

・次の面接が控えているけれど、他のことが忙しくて頭が回らない。

・老いる親の介護を控えているが、考えれば考えるほど不安になってくる。

・町内の来年度の行事計画を立てなければいけないのに、取り組む時間がない。

・あれもこれもやらなきゃいけないことが山積みで、何から手を付けたら良いのか分からない。

 

色々と課題が尽きませんね。

 

私もアレコレとやらねばいけないこと、心配事がたくさんあって、頭がパンクしそうな時があります。

 

こんな時に頭と心をすっきりさせる魔法の言葉が「棚上げ」です。

 

今どうしようもないことは、棚上げしましょう。

 

やるべきことがある。

解決すべきことがある。

幾つもの仕事と心配が重なる。

 

こんな時って焦りますし、うまく解決できるかどうか不安ですね。

 

 

ここで登場するのが「棚上げ」です。

「棚上げ」とは、やるべきことや解決すべきことを「無くす」という意味ではありません。

無くしはしないけれども、今すぐ解決できないことは、頭と心の中から取り出して、別室にある棚の上に置いておくことです。

そして、当面の間、棚の上に置いたものをあえて見ないようにするのです。

 

この棚上げによって、頭も心に空きスペースが出来ます。

空きスペースで、今できる目の前のことだけに集中します。

 

今できることが済んだら、棚の上を見てみます。

そして棚の上に、今すべき必要なものがあったら、棚から降ろして淡々と取り組めばいいのです。

 

この棚上げの癖がつきましたら、気持ちが軽くなりますよ~。

 

 

さらに、驚くことに、棚上げしていた事柄が無くなっていることさえ多いものです。

あるいは棚の上に何かがあっても、自分にとって前よりも小さくなって見えるのです。

 

 

不思議ですね。

 

私、この「棚上げ」を覚えてから余裕が生まれて、パニックにならないようになりました。

 

是非ともお試しください。

 

今までの投稿一覧

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

3.今を生きる

4.「棚上げ」という魔法

 

 

3.今を生きる

こんにちは。

皆さんがお住まいの地域の天気、いかがでしょうか?

私が住んでいますところは、汗ばむ日もあれば、朝方は肌寒くて暖房を入れるような日が繰り返す気候が続いています。

どうぞご自愛なさってくださいませ。

 

さて、今回は「今を生きる」をテーマに思うところを述べたいと思います。

次の画像は、私が大好きな洋画『今を生きる』です。

 

(画像引用:アマゾン)

 

過去のことを悔いる私です。

 

とにかく、私、過去に恥ずかしいことや失敗が多いのです。

ですので、過去を思い出すと、「ワッ!!!」と声をあげそうになります。

実は、一人の時や車の中では、実際に大声をあげることもあります。

 

過去のことが原因となり今にその結果が表れていることがあり、悔いて悩んいます。

可能ならば、過去に戻ってやり直したいです。

 

 

 

未来のことを心配する私です。

 

家族のこと、仕事のこと、自分の心身のこと、お金のこと、、、。

 

これさえ上手くいけば、どんなに心が晴れるだろうか。

これさえ何ごともなければ、心の霧が消えるのに。

 

いつも心配と不安が尽きません。

 

そんな時に、心配と不安から逃れようとすればするほど、心配と不安が自分を追いかけてくるようです。

 

 

過去は過ぎ去り、
未来はまだ来ない。
目の前には今があるだけ。

 

過去を悔い、未来を心配するときに、励みになる言葉を知りました。

標語のようなことが書かれてある日めくりカレンダーを見たのです。

『過去は既に過ぎ去ったから、後悔しても仕方がないです。
未来はまだ来ていないから、どうなるか分かりません。
目の前にあるのは今だけ。
今だけを一生懸命に生きましょう』

 

この言葉を初めて読んだ時、急に光が差したように感じたことを覚えています。

 

 

そうか、今、目の前には今しかないんだ。

取り返せない過去を悩んで、今を無駄に過ごしていたんだ。

どうなるか分からない未来を心配して、今を疎かにしていたんだ。

 

 

過去は取り消せないから、どんな過去も引き受けよう。

未来がどうであっても、その時になってから考えよう。

 

今は今しかない!

今できることだけをやろう!

 

後悔の念にとらわれたとき、

未来の不安にとらわれたとき、

「今、ここ」を思い出します。

今ここで生きようと思います。

 

 

 

 

今も大きな心配事が三つあります。

 

心配と不安に心が吸い込まれるような気がします。

心が不安でいっぱいになり、目の前のことが消えてしまいそうになります。

悩みにとらわれて身体が動かず、小さなことさえも行動できないことがあります。

 

その時には、
「今だけを大切に」と自分に言い聞かせることで、
自分を取り戻しています。

その時には、
深呼吸をします。

その時には、
自分だけでなく、世界の誰かも同じく悩んでいるんだ、
と想像することにしています。

 

今から。

ここから。

 

 

今までの投稿一覧

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

3.今を生きる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

こんにちは。

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしたでしょうか?

旅行に出られた方、映画鑑賞をなさった方、古里に帰省された方、お家でのんびりとテレビを見続けた方。
色々な過ごし方をなさったことでしょう。

 

「今この場所にいることの意味」について書いてみたいと思います。

 

今、私はここにいます。

今、私はこの今を生きています。

何故、自分がここにいるのか。
別の場所で生活している可能性はなかったのか。

今とは別の仕事を持ち、今とは違う家族と過ごし、他の地域で住んでいる自分。
そんな自分がいたのではないかと思い描くことがあります。

今回は、今自分がここにいることの意味について考えてみました。

 

憧れの仕事と、実際の仕事について。

 

若いころ、都会で活躍するかつての仲間たちがうらやましくてなりませんでした。

知り合いはマスコミ業界に就職した人が多かったです。
彼らがニュース番組でレポートする姿をブラウン管から眺めてはため息をつき、新聞社や雑誌社で働く姿を思い描いては憧れていました。
(ブラウン管って、ご存知ですか。テレビの液晶のことです)

 

 

当時、私は一般的に地味だと言われる仕事をしておりました。
朝から晩まで、机に座り誰とも話さずコツコツとそろばんを弾いていました。

これが退屈で退屈で。
退屈と言っても、息をつく暇がないほど一生懸命働いているのですよ。
事務が嫌いということではなく、やり方が決めっていて誰がやっても同じ結果しかでない仕事、自分の創意工夫を出す余地がない仕事にやりがいを感じることが出来なかったです。

そんな毎日を送っていましたので、イキイキとして華やかそうな職場で働く連中が眩しかったのです。

正直言うと、連中が眩しいというよりも、自分自身が情けなかったです。
自分の夢を放棄してしまったような思いにとらわれていました。

どこかに自分を活かせる仕事があるはずだ。
でも、具体的に自分を活かす仕事は何なのかは全く分かりませんでした。
分からないまま、「ここに自分がいてもいいのだろうか?」とふわふわした思いでいました。

そのうちに、オフコン化が職場全体で始まりました。
今はパソコンが中心ですが、当時はパソコンの機能と容量が低かったのです。
システムエンジニア(SE)の方と業務内容の打ち合わせをする日々が続きました。

これは私にとっては楽しい仕事でした。
初めてイキイキとしました。

 

 

この職場では、幾つかの部署を渡り歩きました。
やりがいを感じることもありました。

とはいっても、困難なことがあるたびに、「こんな道を選んだから、こんなに嫌なことに出会って苦しむんだ」と思っていました。

過去の選択を後悔し、現在を否定することで、今の困難から目をそむけていたと思います。

そして、そのうちに退職をして、その後いくつかの職場を体験しました。

やりがいを持てた時もあれば、ただただ辛い時もありました。

 

今までの仕事を振り返って、自分の選択が自分にとって良かったのかどうかは分かりません。

心のどこかに、別の道を選んでいたら、今とは違い、もっとイキイキとした人生を送れていたのではないかという気持ちがあることは否定できません。

 

 

今は、これまでの仕事とは全く違う畑違いの仕事に就いています。
知識も体験もないので、0からのスタートでした。

 

今のこの職場になぜ自分がいるのかを考えてみました。

考えた結果、

奇妙に思われるかもしれませんが、
若いころに選んだ仕事が何であっても、その後転職した仕事が何であっても、結局は今やっているこの職場にたどり着いたのではないかと感じました。
大仰ですが、
今までの体験がこの職場に私を向かわせたのではないかと思います。

 

今ここにいるとは?

 

今いる職場、今いる家庭、今いる場所、今いる環境はいかがでしょうか?

今の状況に対して、満足していない方、辛い思いの渦中にいる方もいらっしゃることでしょう。

困難な状況を打破すべく、現実的な作戦(?)を真剣に考えている方もいらっしゃることと思います。

 

私は、「今、自分がここにいることには何か意味がある」と感じています。

だからといって、「この場所にずっといなければいけない」とは考えていません。
可能ならば、環境を替えてみることもありです。

でも、今がどんな環境であっても、
「どこか別のところが本来の自分がいる場所だ」という思いにとらわれて「今、ここ」を疎かにすることは止めたいと思います。

今の環境にいても、環境を替えても、「今、ここ」という意識を大切にしたいです。

 

『病者の祈り』
(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一人の患者の詩)

 

 

自分が抱える困難があまりにも重く、自分が無力だと感じることが時々あります。

そんな時に、「よし、弱い自分でもいいかな」という気にさせてくれる詩があります。

ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一人の患者の詩です。

詩の中の「神」という言葉に違和感をお感じになる方は、「人に」や「社会に」や「家族に」と読み替えてもよろしいかと思います。

 

『病者の祈り』

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
心の中を言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。

 

英語の原文

 

【 The Answer to All My Prayers 】
━ A Creed for Those Who Have Suffered ━

 

I asked God for strength, that I might achieve,

I was made weak, that I might learn humbly to obey.

 

I asked for health, that I might do greater things,

I was given infirmity, that I might do better things.

 

I asked for riches, that I might be happy,

I was given poverty, that I might be wise.

 

I asked for power, that I might have the praise of men,

I was given weakness, that I might feel the need of God.

 

I asked for all things, that I might enjoy life,

I was given life, that I might enjoy all things.

 

I got nothing that I asked for —-

but everything I had hoped for.

 

Almost despite myself,
my unspoken prayers were answered.

 

I am among all men, most richly blessed!

 

この詩は、「今のあなたでいいから、自分を大切にしてくだだい」というセルフコンパッションの考え方に通じるものがあると思います。

 

ニューヨーク・リハビリテーション研究所
待合室の壁に飾られた銘板より
(引用 https://blog.goo.ne.jp/true-vine/e/f70d7be32b35224d55bfcce80dcd1b76)

 

 

今までの投稿一覧

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

こんにちは。

新緑が楽しみな季節となりました。

 

 

 

今回は、怒りとの良い付き合い方について考えたいと思います。

 

私は自分の怒りを収めることが出来ず、自分自身と物にぶつけていました。

ゲームセンターで射撃ゲームばかりしていた時もあります。

物をたくさん壊しました。

携帯を折り、パソコンの画面をなぐりつけ、壁に穴を開けていました。

 

怒りに取り込まれていた時期は、怒りが沸き起こる仕組みを考える余裕がありません。

怒りのエネルギーは莫大です。
ただただ怒り、くたくたになるだけでした。

 

 

今になって考えますと、こんな時に怒りが沸いたのだと思います。

1.人に何かを期待し、人が期待通りにしてくれないとき。

2.自分の努力が認められず、叱責されるとき。

 

今は怒ることが少なくなりました。

1については、「人を変えることはできない」ということを理解しました。

ですので、人に期待しません。
人は人、自分は自分だと割り切っています。
人に期待しない、割り切るといいますと冷たいようですが、そういうことはありません。
「人はこうあるべきだ」とか「私に対して、人は〇〇のように接するべきだ」とは思わなくなったということです。
換言すると、人のありのままの姿を受け入れて、それに対して批評も分析もしなくなったということです。

 

2については、「人の評価を過大に感じてはいけない」ということを理解しました。

ですので、人からマイナスの評価をされても「仕方ないな」と思うようにしています。
人から悪く言われても、それは人の判断であり、私の判断ではありませんので気にしません。
「気にしません」は言い過ぎですね。
実は凹みます。

でも、凹み方が少なくなりました。
そして、回復が早くなりました。
人から何を言われようが、自分が自分の人生の主人公ですね。
自分の人生を人からの評価に合わす必要はありません。

 

以前、ダライ・ラマ氏の講演を聴いたことがあります。

 

質疑応答の時間に、お若い方がダライ・ラマ氏に尋ねました。
「ダライ・ラマさんも怒ることがあるのですか?」。

ダライ・ラマ氏はこのように答えました。
「もちろん怒ることはあります。
しかし、怒りは波のようなものだと私は理解しています。
波は押し寄せたり、引いたりを繰り返しますね。
私は怒っていると感じとるだけで、怒りを継続させることはありません」。

 

 

この言葉を聴いて、私はホッとしました。

怒りという気持ちを持ってもいいんだということに気付いたからです。
それまでは、怒るという自分がなさけなかったのです。

怒りは持っても良いけれども、その怒りをどのように受け止めるか、どのように処理するかが大切なのですね。

この気付きは、マインドフルネスの考え方と似ていると思います。
自分の感情を否定せずに、ありのまま受け入れることをマインドフルネスは説きます。

 

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