11.「自己責任論」を「セルフコンパッション」で乗り超える

こんにちは。

9月に入り少し過ごしやすくなりましたね。

しかし台風の季節でもあります。

気象警報にお気をつけくださいませ。

(9月5日追記:昨日の暴風雨、大丈夫でしたでしょうか。
こちらは観測以来2番目の強風でした)

(9月6日追記:今日未明の北海道地震、停電が速やかに復旧されますように)

(9月10日追記:「北海道のほぼ全域に及んだ停電は、8日夜までに99・9%にあたる約294万9千戸で復旧した。ただ電気の供給はなお綱渡りで、政府は2割のs節電を呼びかけた。検討中の計画停電は10日までは見送る。11日以降に踏み切る場合、2日前までに知らせる。」 引用:2018年9月8日22時43分朝日新聞DIGITAL)

 

 

今回は「自己責任論とセルフコンパッション」について考えてみます。

 

人の失敗や弱さを責める言葉。

 

こんな言い方を聞いたりネットで見かけることが多くありませんか?

(注意:言い方を強調して書きました。気持ちが沈んでいらっしゃる方は、この章をご覧にならず次の章まで飛ばしてくださいね)

 

 

・「あの人、変りもの。だから浮いても仕方ないよ」

・「働かざる者、食うべからず」

・「置き引きにあったのは、荷物から目を離した貴方が悪い。忙しい警察を煩わすのは気の毒だよ」

・「ウツになる人は考え方が悲観的だったり、仕事のやり方が下手なだけ。上司や職場の環境のせいにするのはお門違いだ」

・「政府の警告を無視して紛争地帯に入って拘束された人を、税金で助ける必要はない」

・「チャンスはあったはずなのに、それを見逃しておいて、今さら文句を言う方がおかしい」

・「仕事を選ぶから正社員になれないだけ。贅沢言わずに、なんでもやるという気持ちさえあれば正社員になれる」

・「ブラックな企業を選んだのは本人の責任よ」

・「努力不足なのに、公的支援で生活するのはいかがなものか」

・「自力で生活できない人って自分自身に原因があるのだから、国は支援を与える必要はない」

・「人に頼るな」

・「自分の身は誰も守ってくれないよ。自分で守らなきゃ」

・「みんなに合わせないから、あんな目にあうんだよ。自業自得だわ」

・「そんな立派な主張をする前に、貴方がどれだけ周囲に迷惑をかけているか考えてごらん」

・「事業を興こしたのは自分の意思だ。その商売が上手くいかなかったのは、その人の責任よ。周囲が支援する必要はない」

・「決まった期間に手続きをしなかったのは貴方の事情でしょ。今さら言われても仕方ないじゃない」

・「生活保護を受ける人は頑張りが足りないだけよ。私なんか嫌なアルバイトに耐えて頑張っているのに」

・「高利の投資によって被害をこうむったからといって、経営者だけを責めていいものだろうか。むしろ、怪しげな話に飛びつく人が悪いんだ」

 

これらの言葉の後には「自己責任だからね」という言葉が加わることが多いものです。

私はこんな言葉を言われると、胸がキュッとしめつけられるような、ナイフをグサッと突きつけられたような気持ちになります。

直接言われなくとも、周囲の会話を聞いたり文章を読んだだけでも、心が痛みます。

 

皆さんはいかがですか?

なかには、このようなことを言われたらどうしようかと怯えていらっしゃる方、あるいは言われないように人を避けている方もいらっしゃることと拝察します。

 

「自己責任」の意味を調べました。

 

そもそも、「自己責任」という言葉はどんな意味なのでしょうか?

 

 

まずは、ネット辞書を検索してみました。

・「デジタル大辞泉」と「goo辞書」では、
 、自分の行動の責任は自分にあること。「投資は自己責任で行うのが原則だ」
 、自己の過失についてのみ責任を負うこと。

・「weblio辞書」では、
自分の行動の結果として危機に陥ったのなら、自分で責任を負うべきであり、他人に助けを求めるべきではない、といった論理を基調とする考え方。
危険であることが事前に予測できたにもかかわらず、危険を顧みずにに敢行したのだから自業自得だとする考え方。

一方、紙媒体の辞書には「責任」という言葉はありますが、「自己責任」という言葉は見つかりません。

ということは、「自己責任」という言葉は用法が確定/定着していなく、ある意図で用いられる言葉ではないかと推測されます。

(先の画像は私が使っている「明鏡国語辞典 携帯版 初版第八刷」です。
もしろん「自己責任」は載っていなく、「自己」の用法に「自己の責任・自己満足」とありました)

では、この「自己責任」という言葉を使う人々は、どのような意図があるのでしょうか?

 

【一休み】

邦画「舟を編む」は、辞書作りがテーマです。
松田龍平さん、宮崎あおいさんをはじめ、キャストがピッタリの映画でした。
原作は三浦しおんさんの同名小説です。

 

「自己責任」のイメージです。

 

 

まずは、私が「自己責任」という言葉から感じること、および「自己責任」を使いたがる人々への印象を羅列します。

 

 

1.
人を突き放すような冷たい言葉。

2.
自分がまずいことに関りたくないので、当事者だけに責任を押し付ける言葉。

3.
自分が努力していることや得意なことを、不得意な人にも強制しようとする言葉。
そして、それが出来ていない人を責めるときの言葉。

4.
「困ったときはお互い様」という度量が自分にないことの言い訳に使う言葉。

5.
周囲の人々が問題に向き合い改善策を考えればよいのに、それを考えるのが面倒だから、個人の責任に閉じ込めて見て見ぬふりをする。

6.
『出る杭は打たれる』という諺と似ている雰囲気が漂っている。
各人の特徴を拒んで、みんな一緒であることを強要しようとしている。

7.
会社と行政が責任逃れ、またはサボタージュをしたいがために、個人を悪者にしておく。

8.
政府批判がおきないように、個人をスケープゴートにしたてあげ、国民の世論をかわそうとしている気がする。

9.
『他人に迷惑をかけないように』という言葉を振りかざし、弱さゆえ失敗ゆえに「迷惑をかけざるを得ない状況になった人」を非難する。

10.
自分を安全地帯に置いたまま社会の現状から目を背けて、あたかも自分が善人であるかのごとく発言する。

11.
「自己責任」という言葉を安易に使用する人は、社会問題を深く検証しようとせず、また十人十色である人間の気持ちと背景に想像を至らせない。

12.
「規制緩和」・「新自由主義」・「郵政民営化」が論じられていた1990年代後半から、それら言葉とセットで多用されるようになった言葉。

13.
やむにやまれぬ事情を考慮することなく、「ルールですから」の一言で一刀両断し、事情の背景を考察しようとしない。

14.
試合が終わったのに、いつまでも人を批評する審判。

 

なんだか、私のうっ憤を晴らしているみたいですね。

私も1~14のうち幾つかは、時として当てはまることがあります。

だからこそ、イメージが浮かぶのでしょうね。

 

(ご留意願います)

「責任」ということを決して軽視してわけではありません。

「責任を取る」・「責任感を感じる」・「責任を負う」とは、
「自分がリスクをわきまえたうえで行動したならば、仮にマイナスの結果となったとしても、他人や環境のせいにせずにまずは結果に対して自分で責任を負う」
ということです。

「責任」を尊重する考えと態度は、社会の中でお互いが生活するうえで前提となる基本です。

もしも「責任」を放棄し他人や社会が悪いというならば、人間関係と社会生活はたちどころに崩れ去ることでしょう。

ここで私が問題としているのは、「責任」という言葉に「自己」という言葉を加えて「自己責任」と言うことです。
その結果、「自己責任」という言霊を利用し個人を責めることによって、本来の責任主体に霞をかけているのではないかということです。

 

「自己責任論」の正体とは?

 

(画像引用:「美味しんぼ」

 

「村八分」になりたくないために「世間体」を気にし、是非を考えずに周囲に同調してきた人々がいます。

その人々は自らの中に鬱積した妬み(ねたみ)を抱えています。

その妬みを正当性を装って発散する方法として「自己責任」という言葉を振りかざすこと、それが「自己責任論」の正体だと考えます。

「自分は周囲の方と足並みをそろえることに気を配り真面目に頑張っているんだ。
それなのに努力する割には報われていないではないか。
将来が不安で、今さえもどこか心もとない。」

こんな矢切り切れなさと不満を心の奥底に持っている人々が、誰かを責めることで留飲を下げているのでしょう。

ある意味ではもっともな心理なのかもしれません。

 

「自己責任論」を利用する側とは?

 

 

今は、こんな時代です。

・高度経済成長とバブルが終わりリーマンショックを経て、低金利とデフレの経済状況です。

・グローバル化・IT化(AI化)という得体のしれない言葉が日常用語のように飛び交っています。

・戦後長く理念としてきた「民主主義」「自由・平等・友愛」「国際主義」の意味が、是非を話し合って検証する作業を充分しないないまま、なし崩し的に変容しつつあります。

・個人の財布については、所得の相対的格差は広がる一方です。

・メディアには、パワハラ・セクハラ・モラハラに関する記事が毎日のように載っています。

・目を海外に向けますと、中東情勢・東アジア情勢の更なる混迷の中、EUとアメリカ合衆国の民族主義的孤立主義が台頭しています。

 

自分が何を信じて、何を指針として生きていけばよいのか自信が持ちにくい時代です。

心のどこかで違和感を感じながらも「自己責任論」はもっともだと感じ人を責めてみたり、逆に自分自身の身を責めてみたり、、、、、。

実に不安な時代ですね。

 

こんな時、私はこんなことを考えるようにしています。

「流行り言葉の裏には必ず、その風潮を利用して得をする人々がいるのではないか?」です。

前々章の「「自己責任」のイメージです。」で述べました通り、私たちが生活をする日常にも「自己責任論」をよりどころにして言動を正当化する場面は多くみかけます。

ただ、それは個人の言動にすぎません。

私がここで考えますのは、個人ではなく、組織が持っている権力を利用して「自己責任論」を会社や個人に押し付ける勢力のことです。

会社に対しては許認可や行政指導権限を持つ官僚制度(行政)を利用し、個人に対してはマスコミの世論形成を利用する勢力です。

あるいは、「村八分」に代表される同調圧力が厳しかった監視社会の精神性を利用する勢力です。
協力や助け合い文化は大切なのですが、その美名のもとに除外された人々がいかにおおかったかに心に留めておきたいです。

 

しかし、ここは「セルフコンパッション」について語るサイトですで、ここで話を打ち切ることとしますね。

 

「自己責任論」を振りかざされて、貴方が凹んだ時は「セルフコンパッション」を思い出して。

 

人から、特に仲が良いと思っていた知人から「それは自己責任よ」とズバッと言われた時は凹みますね。

自分が置かれた立場と悩みを理解してほしい時に、「人に期待せずに貴方がもっと頑張れば良いのよ」と責められると、数日間は立ち直れない気持ちになります。

 

 

そんな時は、「セルフコンパッション」を思い出してください。

 

・まずは、固定ページの「その1.「自分自身に優しくする」Self-Kindness」

「貴方を責める人がいたら、『そういう人もいるんだな』くらいに受け止めるだけにでいいよ」→「あなたは、難しい環境の中でよくやっているよ」→「だから、貴方は今のままで充分だ」。

→「人が勝手に決めつける『自己責任論』におびえる必要はありません」→「『自分は自分のものなのです』。自分を評価するのは、『人』ではなく『自分自身』のですから」。

 

・次は、固定ページの「その2.「自分も人も共通」Common Humanity」

「自己責任論を声高に唱える人は、もしかすると、自分が何かで責められていてストレスを抱え、他人を責めることで発散させているだけかもしれない」
→「責める側も結局は責められる側と同じなのよ」
→「むしろ、こんな世になかの風潮が問題なだけ」。

「『あなたの責任だわ』といわれている人ってとても多いです」
→「人が生活するには、性格・仕事・金銭・人付き合い・健康のように幾つもの領域と関わります。すべてにおいて誰からも責められていない人なんか一人もいなのよ」
→「だから、自己責任を問われた時は『はい、気を付けます』とだけいって、その場からすぐに立ち去るのが賢明よ。そして、誰でもこんなことを言われているのかしらと思えばいいだけ」。


・最後に、固定ページの「その3.「ありのままの自分を観る」Mindfulness」

「世相は変化していきます。その端的な例がありますね」
→「最初は、イラクに行った若者たちを政府幹部は『自己責任論』で問いつめ、世論を結果として誘導しました」
→「しかし、パウエル米国務長官が『かれらを責めて良いわけではない』『日本人は、そのようなことを進んで引き受けた市民を持っていることを大いに誇りに思うべきです』と発言した途端に、政府幹部は静かになりました」
→「自己責任論とはこの程度のものです。時の情勢によって、ころころと変化するものです」
→「だからこそ、アレコレと考えることは止め(だいたいにおいて考えると自分を責めることになるから)今の自分を大切にするのが良いですよ」

 

 

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2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

3.今を生きる

4.「棚上げ」という魔法

5.母を亡くしました

6.認知症だった母への罪悪感

7.罪悪感を手放す具体的な方法

8.罪悪感と怒りとは同じものかもしれません

9.悲しみは誰でも持っている。『でんでん虫の悲しみ』(新美南吉)

10.対話は、理解よりも共感が大切! -書籍と映画を通じて-

11.「自己責任論」を「セルフコンパッション」で乗り超える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10.対話は、理解よりも共感が大切! -書籍と映画を通じて-

こんにちは。

夏の甲子園100回大会、全出場校が出そろいました。

今年も熱戦が楽しみです。

(画像引用:高校野球ポスター甲子園の受賞全作品

 

試合結果については、次のサイトが便利だと思います。

日本高等学校野球連盟

NHKサイト

朝日放送サイト

パソコン中継のサイト

 

子どもとの会話がぎくしゃくしています。

 

子どもから私がたびたび言われる言葉があります。

 

それは、

「私のことを何も理解してくれないくせに、分かったようなことを言うな!」

 

「そうかなあ、分かっているつもりだけど」と答えると、
「あんた、それでも親か?。私がどんなに辛い思いで生きているのか分かっているのか?」。

グサッ!

ギクッ!

ウウッ!

 

何かの折に「子どもとの会話が上手くいっていない」と職場でつぶやきました。

すると、ある方が一冊の本を貸してくださいました。

これです ↓

(画像引用:Amazonの書籍案内

 

題名は『人の話を「聴く」技術』。

 

編著者はこちら→メンタルケア協会

この協会の顧問は『バカの壁』で有名な養老孟子さん

そして、協会が認定するのが「精神対話士」という初耳の資格です。

 

むさぼるように読みました。

 

『人の話を「聴く」技術』の内容です。

 

この本、目次は65項目あります。

目次を幾つか列挙することで、本の案内とさせていただきます。

 

「02:ただ聞くのではなく、心で聴くことが大事」

「03:対話には、理解よりも共感が必要」

「04:気持ちが受け止められたとき、話し手は十分な満足を得る」

「05:共感とプラスの言葉が生きる希望を生み出す」

「09:容易な理解を示すと、話し手の信頼を失う」

「10:早急な助言は、相手の反発を招く」

「14:相手の言葉を丸ごと受け止めてあげる」

「17:対話が本心を探り当てたとき、人の気持ちは180度変わる」

「23:純粋に相手の言葉だけに耳を傾ける」

「24:説得して人を動かそうとしないこと。話を聴いてあげれば、心は自然と動く」

「25:同意できない話でも共感は十分にできる」

「38:苦労話を聴いて、相手の活力を引き出す」

「39:助言する前に、相手の不安を受け止める」

「43:頑張れ!と言わないで励ます傾聴術」

「47:対話で大切なことは、話の真偽ではなく、相手の本当の気持ちを見つけること」

「59:同じ話をしては怒りを爆発させた青年をカタルシスへと導いた精神対話」

「60:話の核心を求めないほうがいい対話もある。不安や不満を十分に受け止める傾聴術」

「64:孤独感を取り除けば、絶望は生じない」

 

「意味情報」と「感情情報」。

 

『人の話を聴く技術』では、人と人の間で取り交わされるメッセージを二つに分けています。

 

ふつう私たちが日常で会話するときには、その言葉に二種類のメッセージが込められています。「意味情報」と「感情情報」と呼ばれるものです。

 

相手の話を「意味情報」だけで理解した場合、次のような返事になっていませんか?

「それは〇〇だ」、「〇〇という風に考え直せばよいよ」、「〇〇は止めて、〇〇したらよい」という返事です。

これは、相手の言葉の中にある「感情情報」を受け止めていない時に生じます。

相手の発言内容を理屈で幾ら理解しても、話し相手は「自分が理解された」という気持ちにはなりません。

自分をありのまま理解してくれてこそ、共感されたという安心感が生まれると思います。

相手の話を「意味情報」だけではなく「感情情報」で理解し共感しようとすると、お互いが安定した関係になることでしょう。

 

子が発する言葉を「感情情報」だと受け取らなかった私。

 

私と子どものケースでいえば、子どもの辛さを「意味情報」として理解し理屈でアドバイスをしていたのだと思います。

子どもからすれば、自分の悩みや困難さを受け入れてくれてもらえずイライラだけが募ったことでしょう。

子どもが発していた「感情情報」を私は受け止めていなかったのです。

と気付きましたが、子どもと親との関係は難しいものですね。

 

次章では、難しい親子関係をテーマにした映画をご紹介します。

 

映画『君はひとりじゃない』と『ありがとう、トニ・エルドマン』と『普通の人々』。

 

最近、『君はひとりじゃない』というポーランド映画を観ました。
公式サイト

 

(画像引用:公式サイト)

 

摂食障害の娘にどのように関わったらよいか分からず戸惑うお父さん、そしてお父さんを拒絶する娘。

解説サイト→Filmarks

この解説サイトに、投稿されていた文章を一部引用します。

概ねダメでも、全くダメなわけではない
解決策が見つからなくても諦めなくてもいい
手遅れかどうか、最後まで分からない

親子の関係は、親が子どもにかかわり続ける限り、どこでどうなるか分からないものですね。

 

次はドイツ映画をご紹介。

『ありがとう、トニ・エルドマン』

 

(画像引用:公式Twitter

この映画も父娘の気まずい関係性がテーマになっています。→解説サイト

お父さんについて、このサイトでは次のように記されています。

(町山智浩)で、これがまたウザいんですよ。このお父さんのイタズラが。そんなに面白くないんですよ。

(赤江珠緒)ああ、そうなのね(笑)。

(町山智浩)そう。で、ギャグをいっぱいやるんですけど。このお父さんっていうのは娘がいるんですよ。娘さんはもう35を過ぎているイネスという一人娘なんですね。で、このお父さんは非常に生活能力の低いお父さんで、だいぶ前に離婚されちゃっているんですよ。で、ずっと会っていないんですね。で、お父さんは小学校の音楽の先生をやっているんですが、あんまりお金儲けに興味がなくて、ボロボロの家にワンちゃんと一緒に1人で住んでいて。ちょっと世捨て人っぽいんですよ。

(赤江珠緒)うんうん。

(町山智浩)で、娘のところにたまに行っては、くだらないジョークを言うんで。離婚しているお母さんの家にいる娘のところにね。すごくウザがられているんですよ。

(赤江珠緒)ちょっと面倒くさいタイプですな。たしかに(笑)。

(町山智浩)面倒くさいタイプなんですけど、これね、オヤジギャグを連発する人なんですよ。この人。

子どもにとっては、実に困ったお父さんですね。

 

とはいえ、

子どもにとっては不器用で迷惑な親の関り方であったとしても、「自分のことを心底思ってくれている」といつか子どもに伝わるものだと信じたいです。

親子の関係は、もともとが不格好なものなのかもしれません。

この不格好でみっともない取っ組み合いの中で、子どもと私との関係が築かれますようにと思います。

 

最後に、映画『普通の人々』。

アカデミー作品賞・監督賞・脚本賞・助演男優賞を獲得した1980年のアメリカ映画です。

 

(画像引用:Amazon)

 

この映画、少なくとも5回は観ました。

最初は名画座で2回立て続けに。

解説サイト→Movie Walker 

前述映画2本は父娘の関係でしたが、『普通の人々』はお母さんと息子の関係が描かれています。

お母さんの息子への言動の感想は、「えっ!」と「分かる!」に二分されると思います。

人気男優ロバート・レッドフォード、最初の監督作品でした。

・人気作品ランク→映画ランキングサイト

・作品リスト→allcinemaサイト

・イケメン→gettyimagesサイト

 

 

 

親子、夫婦、友人、職場、みな同じ。

 

とことん聴くという方法は、親子関係だけでなく夫婦・友人関係、さらに職場でも活かせます。

本の例を拝借しながら書きたいと思います。

職場の同僚が「昨日は夜中の11時までかかってこの報告書を書き上げたんだ」と貴方に声をかけてきたとします。

あなたはどんな返事をしますか?

「報告書の締め切りが先だから、そんなに慌てなくてもよかったのに」。

「丁寧に書きすぎるから時間がかかるんだよ。要点だけ簡潔に書けば楽だったのに」。

といった返事をなさっていませんか?

一方、同僚の「感情情報」に視点を切り替えてみます。

「夜中の11時までかかってこの報告書を書き上げたんだ」という言葉は単なる報告ではなく、『自分の頑張りを認めてよ』という思いが奥にあると思うのです。

「お疲れ様だったね。そんなに頑張ったんだから立派なもんだよ」という労いを同僚に第一声として返せば、同僚は報われた気がするものです。

 

 

夫婦の会話ではなおのこと「感情情報」が大切ですね。

妻が待つマンションに仕事で疲れた夫が帰ってきた場面を想像なさってください。

「今日ね、マンションの壁にひびが入っているのに気づいたから管理組合に伝えたの。そしたらね、、、、、、。ねえ、貴方はどちらの改修方法が良いと思う?」と妻が夫に畳みかける場面です。

妻の問いかけは「どちらの改修方法が良いと思う?」ので、夫は改修方法を尋ねられたものだと感じ「A案でいいんじゃないの」と答えます。

妻はそれを受け、「でもA案だと、、、、、、、」と話が延々と続きそうです。

しかし、「感情情報」は何か考えるならば、「よくひびに気付いたね。管理組合に伝えてくれてご苦労さん。慣れないことで大変だったね」とまずは一言添える答えの方がよろしいと思います。

すると、妻は満足しそこそこで話切り上げることでしょう。

 

次は、夫がいつになく無口で不機嫌だった場合です。

妻は夫に「貴方、なんで黙っているの? 黙っていないで何かしゃべってよ」と言いたくなりますね。

こんなとき、「貴方、今日は疲れているように見える。職場で困ったことがあったの?」の一言がありますと、妻が自分の立場に立ってくれたように夫は感じます。

「実は、、、、」と喋りやすくなるものです。

 

 

「マインドフルネス」で今を受け止めよう。

 

「意味情報」だけではなく「感情情報」も同時に受け止めるには、今この一瞬この場で相手はどんな気持ちでいるのだろうかに意識を向けなければいけません。

この「今この一瞬この場で」とは、まさにマインドフルネスの発想ですね。
このサイトの固定ページ「「ありのままの自分を観る」Mindfulness」

昨日という過去、明日という未来を考える前に、今、目の前の相手がどんな気持ちでいるかに耳を澄ませたいたいです。

 

 

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9.悲しみは誰でも持っている。『でんでん虫の悲しみ』(新美南吉)

10.対話は、理解よりも共感が大切! -書籍と映画を通じて-

 

 

 

 

 

 

 

 

9.悲しみは誰でも持っている。『でんでん虫の悲しみ』(新美南吉)

こんにちは。

サッカーワールドカップ、コロンビア戦!

日本のパス回しが素晴らしかったですね。

視聴率は40%台だったそうです。

 

今回は、先日ラジオで聴いた童話を。

(アイキャッチ画像引用:新樹社)

 

『デンデンムシノ カナシミ』(新美南吉)

 

 

まずは、童話の全文を記します。

一匹のでんでん虫がありました。
ある日、そのでんでん虫は大変なことに気がつきました。
「私は今までうっかりしていたけれど、私の背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっているではないか」
この悲しみはどうしたらよいでしょう。

でんでん虫は、お友だちのでんでん虫のところにやってきました。
「私はもう生きていられません」
とそのでんでん虫はお友だちに言いました。

「何ですか」
とお友だちのでんでん虫は聞きました。

「私はなんという不幸せな者でしょう。私の背中の殻の中には悲しみがいっぱい 詰まっているのです」
と初めのでんでん虫が話しました。

すると、お友だちのでんでん虫は言いました。
「あなたばかりではありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです。」

それじゃ仕方ないと思って、初めのでんでん虫は、別のお友だちのところへ行きました。

すると、そのお友だちも言いました。
「あなたばかりじゃありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです」

そこで、初めのでんでん虫はまた別のお友だちのところへ行きました。
こうして、お友だちを順々に訪ねていきましたが、どのお友だちも同じことを言うのでありました。

とうとう、初めのでんでん虫は気がつきました。

「悲しみは誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の悲しみをこらえて生きなきゃならない」
そして、このでんでん虫は、もう嘆くのを止めたのであります。

 

 

原文は、すべて分かち書きのカタカナで書かれています。
勝手ながら、私がカタカナを漢字にし、分かち書きをなくして表記しました。

原文はこちらをクリック→青空文庫

朗読はこちらをクリック→YouTube

 

自分だけではない。みんな悲しみを背負っている

 

ジーンときました。

初めのでんでん虫は私と同じだと感じました。

 

 

>「私は今までうっかりしていたけれど、私の背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっているではないか」

悲しみがいつも自分の心を覆っているという事実に気付くことがあります。

 

>この悲しみはどうしたらよいでしょう。

悲しみをどうにかして心から追い出したいともがく日々です。

 

>「私はもう生きていられません」

この悲しみがある以上、自分は一生不幸だと暗くなることもあります。

 

>「あなたばかりではありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです。」

明るそうに見える人、元気で何の苦しみもない人のように見えても、実はだれしも悲しみを抱いているのですね。

悲しみを持つのは自分だけではない、

みな同様なのだ、

と、でんでん虫は気付いたのですね。

 

>「悲しみは誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の悲しみをこらえて生きなきゃならない」

そうなんです。

生きるとは、良いことばかりではないです。

むしろ、マイナスの出来事に出会うことが多いくらいかもしれません。

プラスもマイナスも両方を背負いながら、生という営みを続けているのですね。

 

>そして、このでんでん虫は、もう嘆くのを止めたのであります。

『嘆くのを止めた』とは、

きっと、悲しみも抱えながら生きていくということを受け入れたのだと思います。

 

 

コモンヒューマニティー:Common Humanity

 

でんでん虫の気づきは、このサイトのテーマであるコモンヒューマニティー(Common Humanity)と同じだと思いました。

悲しみと苦悩の真っ最中にいるときは、自分だけが苦しんでいると思いがちですね。

こんなとき、「自分だけじゃない」と考えるだけで、心が落ち着いてくると思います。

コモンヒューマニティー(Common Humanity)にご興味がある方は、このサイト内の固定ページ「その2.「自分も人も共通」Common Humanity」をご覧いただけましたら幸いです。

 

 

受け止める・受け入れる・受け流す

 

悲しみや苦難に出会ったとき、どのように付き合っていますか?

最初は、拒絶したり追い出そうとしたりして、私はあがきます。

次に、逃げ出そうとします。

 

でも、あがけばあがくほど、逃げれば逃げるほど、悲しみと苦難の穴に落ち込んでしまいます。

 

このとき、便利な言葉を思い出すように心がけています。

「受け止める」と「受け入れる」と「受け流す」です。

 

てんとう虫は、『私は私の悲しみをこらえて生きなきゃならない』ことにしました。

この『こらえる(堪える)』は何だか道徳的すぎる印象を私は持ちました。

 

『こらえる(堪える)』を、「受け止める」と「受け入れる」と「受け流す」に替えると、心が軽くなる印象になると思います。

「受け止める」と「受け入れる」と「受け流す」を使い分ければ良いと考えます。

 

事実は「受け止める」。

悲しい心は「受け入れる」。

人からの心ない発言や態度は「受け流す」。

 

よろしかったら、この三つの言葉を使い分けながら、悲しみと付き合ってみてくださいね。

 

 

(画像の洋画『カサブランカ』の主人公は、三つをうまく使い分けて悲しみと付き合ったと思います)

 

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7.罪悪感を手放す具体的な方法

8.罪悪感と怒りとは同じものかもしれません

9.悲しみは誰でも持っている。『でんでん虫の悲しみ』(新美南吉)

 

 

 

 

 

 

 

 

8.怒りと罪悪感は同じものかもしれません

ひらめきました。

閃きました。

ひらめいてしまいました。

 

職場に向かう自動車の中。

今朝、突然です。


「怒りと罪悪感は、同じことの裏表に過ぎない!!!」

 

私が怒るとき

 

 

あなたはどんな時に怒りますか?

私は次の二つの時です。

 

・まずは、自分の期待通りの行動を相手がしてくれないとき。

・次は、自分が頑張っているのに、相手が自分を認めてくれないとき。

 

一方、罪悪感が湧くときはどんなときでしょうか?

 

私が罪悪感を持つとき

 

 

罪悪感を強く感じる時は、こんなときです。

・まずは、自分のルールに反する行動を自分がしたとき。

・次に、自分の罪に必要以上にこだわり、自分を責めたとき。

 

怒りと罪悪感は同じかもしれない

 

 

 

怒るときも罪悪感を持つときも、根は同じように感じます。

・怒りは、相手の行動や感情をコントロールすること。

・罪悪感は、立派な理想像の自分と現実の自分とを比べること。


自分ではどうにもならない相手をどうにかしようと思ったときに「怒り」がわき、

現実にはあり得ない理想像に自分を近づけようとしたときに「罪悪感」がわきます。

どちらも、自分自身に執着しすぎてしまい客観的な見方ができていないという点では同じですね。

エネルギーが外部に向かうと怒りになり、
内部に向かうと罪悪感におちいるという見た目の違いはありますが、

頭と心の仕組みは同じだ思いました。

 

「ひらめいた」は、大仰でしたでしょうか?

そうかもしれません。

 

でも、私にはピカッとひらめいたとしかいえない体験でした。

 

 

今までの投稿一覧

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

3.今を生きる

4.「棚上げ」という魔法

5.母を亡くしました

6.認知症だった母への罪悪感

7.罪悪感を手放す具体的な方法

8.罪悪感と怒りとは同じものかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7.罪悪感を手放す具体的な方法について

こんにちは。

当地では過ごしやすい気候が二日間続いています。

皆さんがお住まいのところも穏やかな天気だといいですね。

 

今回も前回に引き続き、罪悪感について述べます。

 

「罪悪感を手放す方法」がテーマのサイト

 

数日前。

私、いけないことをしました。

人さまには言えないことです。

自分がこんなに悪い人間だったなんて、、、、、。

罪悪感と情けなさでずっと凹んでいました。

 

最初の二日間は、罪悪感の池にどっぷりと浸かっておりました。

 

 

三日目。

「このままじゃいけない」
「なんとか凹みから立ち直る方法がないだろうか?」
と考え始め、
『悪いことをしたとき』でネット検索をかけてみました。

すると、一番上に表示されていましたのが『罪悪感を手放す方法』というページでした。

 

ゆっくりと拝読するうちに、心が落ち着いてきました。

このサイトに出会えて良かったです。

『罪悪感を手放す方法』の作成者さま、ありがとうございます。

 

サイトに書かれていたこと(引用)と、感想を併記したいと思います。

 

罪悪感を抱く時って?

 

 

まずはサイトの引用から。

 

ちょっとした嘘をついてしまったこと、信号無視をしてしまったことから、誰かを傷つけてしまったこと、誰かを救えなかったことまで、私達の中にあるルールに違反してしまったことが原因です。

・嘘をついてはいけない

・人を傷つけてはいけない

・家族は助け合わないといけない

法律で決められていなくても、私達はこのようなルールを無意識的に感じて生きています。

ルール違反によって罪の意識を感じること自体は、あなたが『正常』であることを示しています。

 

なるほど!

長い人生の中で社会や自分が決めたルールに反した時に、罪悪感が生れるのですね。

 

ところが、時として必要以上に自分に罪の意識を感じてしまうことがあります。

法律の中でも、罪にも程度があり、罰にも程度があります。必要以上に罪の意識を感じたり、自分を罰する必要はないのです。

償いが終わったのであれば罪悪感を手放しても良いのです。

罪悪感を手放す方法をシェアしたいと思います。

 

そうなんです。

必要以上に自分を責めているのかもしれません。

『償いが終わったのであれば罪悪感を手放しても良いのです』。

『手放す』っていい言葉ですね。

なんか心が軽くなり、光がさしてきそうです。

でも、償いをする機会があるのでしょうか?
とも思います。

 

罪の重さに点数をつける

 

 

 

やってはいけない悪いことはたくさんありますが、ただ『悪い』とだけ考えてしまうと、実はたいしたことではないのに強い罪悪感を感じてしまうこともあります。

例えば人殺しを100点とすれば、歩道での信号無視は3点くらいかもしれません。

点数をつけるときのコツは、他の罪と比べることです。

 

『実はたいしたことではないのに強い罪悪感を感じてしまうこともあります』。

そうですね。

そういう傾向が私にはあるようです。

あれもこれも同様に自分の非を感じてしまい、何にでも同じような大きさの罪悪感を感じることがあります。

 

白か黒か、0か100かという発想ではなくて、その大きさの程度を冷静に考えたいと思いました。

気に病むことが少なくなりそうです。

 

補償することで罪悪感を手放す

 

 

罪悪感を消す最もスタンダードな方法が『補償』です。
補償=損害・費用などを補いつぐなうことです。

「やったことは取り返しがつかない」と思うかもしれませんが、あくまで「同じくらいのもの、同じくらいのこと」で補償するのがポイントです。

他人のものを壊してしまって損害賠償する場合、同じものを返すことはできないので、だいたいは『損害と同等』のお金で補償しますよね。

心の問題の場合、お金で解決しようとするのは基本ダメですが、同じくらいの価値を相手に与えることで補償しましょう。

 

そうか、補償するという手があったのですね。

 

一度犯した罪は取り消せないと思い込んでいましたが、補償することで幾分かは罪の意識が減りそうです。

 

直接の相手に補償が不可能であっても、他の人に優しくするように心がけます!

 

「〇〇しない」ではなく、「○○する」

 

 

行動を変えるコツは、反対の行動を意識する、ということです。

例えば「嘘をついて人を傷つけてしまった」場合、「嘘をつかない」と決めただけでは意識するのが難しく、行動を変えずらいです。

「嘘をつく」の反対は「正直に話す」です。

「嘘をつかない」ではなく「正直に話す」と心がければ、いつも行動に結びつけられますよね。

会話の度に「正直に話す」ことを意識すれば、その度に心の傷は塞がっていき、痛みは消えていきますよ。

 

これ、いい工夫ですね。

早速、自分の行動に取り込みたいです。

 

「嘘をつく」の反対は「嘘をつかない」ではなく、「正直に行動する」。

プラスに考えることで行動が出来て、気持ちが楽になりそうです。

 

誰かに話を聞いてもらって、自分を許す

 

 

キリスト教、特にカトリックでは、教会の仕事として『懺悔』を聞くということがあります。

自分で自分を許せない時、代わりに神に許しを乞うのです。

特に重い罪悪感を感じているとどうしても自分が許せないということもあります。

かといって、友人に話すことも難しいですよね。

そんな時は、お寺の住職などに相談すると話を聞いてくれることもあります。また占いをしてもらった時などについでに懺悔してしまうのも手です。最近では、電話で「話を聞く」サービスもあります。どうしても辛い時にはこれらの方法を試してみてください。

 

これって、「自分も人も共通」(Common Humanity)と似ていますね。

「自分も人も共通」(Common Humanity)については、こちらをクリック

罪悪感で凹んでいるときは、「この世の中で自分だけが悪いのだ」と思い込むところがあります。

自分だけでない!!!

皆がだれしもが罪悪感で悩むものだと想像するだけで、罪悪感に冷静に向かえそうです。

 

相手は貴方のことを意外と気にしていない

 

 

 

私達は、自分がやってしまったことで、相手がどのような傷を受けたのかよく知らないまま、自分だけで一方的に罪悪感を感じつづけてしまうことがあります。

可能であれば、相手の気持ちを確認してみましょう。普通に話しができる相手であれば、「あの時○○と言ってしまってごめん」などと謝罪する形で聞けば悪い方向には進みません。

以外と相手は気にしていなかったりして、スッキリすることもありますよ。

 

そうかもしれない!

自分が相手を傷つけたと決めつけて、自分が勝手に罪悪感を抱いているだけのことって、ありえますね。

 

「しまったという感情→自分が悪いという評価・判断→罪悪感」という流れで罪悪感が膨らみます。

しかし、「自分が悪いという評価・判断」は、思い込みによる余計な判断かもしれません。

このことは、「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)に通じる発想だと思いました。

「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)については、こちらをクリック

 

他人からの相談だと思って考えてみる

 

 

 

私達は自分の中で何度も繰り返し考えるうちに、いつの間にか問題を大きく考えすぎる傾向があります。

客観的に判断する方法として、もし自分が友人から同じ悩みを相談されたらどう思うか?考えてみるといいですよ。

「あなたは全然悪くないじゃん!」「気にしすぎ!」と思うかも知れないし、「悩んで当たり前」だと思うかも知れません。

もし「気にしすぎ」「あなたは悪くない」と答えるのであれば、実際にあなたが気にする必要はありませんし、あなたは悪くありません。

 

なるほど、なるほど。

自分自身を責め続けると、頭がマイナスの感情で占められてしまいます。

そんな時ほど、友人から同じ悩みを相談されたと仮定して、自分だったら友達にどのようにアドバイスできるかと想像してみるゆとりが大切ですね。

 

 

自分を責めるだけではなく、自分を慰めることも必要です。

それでこそ、心のバランスが保たれますね。

このことは、まさに「自分への思いやり」(Self=Compassion)です。

「自分への思いやり」(Self=Compassion)については、こちらをクリック

 

自分だけのせいではない、客観的に責任分担する

 

 

罪悪感が完全に消えるわけではありませんが、責任の全てを自分が背負うことは避けないといけません。

「自分も悪かった」と思うかもしれませんが、交通事故でも8:2、6:4など責任の分担があります。冷静に考えた場合、自分が100%悪いことはまずありません。

「3割は自分が悪かった」と思うだけでも、心のしこりが小さくなります。罪悪感を軽くすることができます。それは責任転嫁ではなく正当な権利です。

 

『それは責任転嫁ではなく正統な権利です』。

私にとっては、目が覚めるような言葉です。

 

 

罪悪感を持つときは、「全ての責任は私にある」と考えがちです。

しかし、冷静に考えてみれば、起こった出来事の責任は、何も自分だけにあるはずはありません。

罪悪感の池に自らを落とす前に、冷静に考えたいです。

 

救いと償い

 

 

 

私達は助け合って生きているのと同時に、傷つけあって生きています。

「人に迷惑をかけてはいけない」
と多くの人は考えていますが、親密な関係であるほど、迷惑をかけまくっていますよね?でもその分許し合って助け合っていればそれで良いのです。

嫌われないように、迷惑をかけないように、とだけ考えて生きていたら誰とも仲良くなれず、とても殺伐とした社会になってしまいます。

たとえ誰かを傷つけてもその分他の人を救ってあげればいいのです。

 

心に染み入る言葉です。

 

傷つけあって生かされている。

人を助け、助けられて生かされている。

これが人の世ですね。

 

傷つけることを怖れていたら、部屋に引きこもるしかありません。

 

『たとえ誰かを傷つけてもその分他の人を救ってあげればいいのです』

なんて優しい言葉でしょう!!!

 

例えば相手が故人のような場合、その本人に対して罪を償うことができないこともあります。

その場合、相手の家族に対して何らかの償いをすることも立派な償いです。

相手が大切にしているものであれば、本人でなくてもいいのです。

また今すぐに何かを行うことが難しい状況もあります。その場合でも、いつか○○という形で償うと決めておけば良いのです。

罪悪感はあくまで自分の心の問題です。強く誓うことは、実際の行為と同じ意味があります。

 

自分と他人、人間と自然、地球と宇宙。

それぞれがバラバラに存在するのではなく、どこかでつながりあって存在している。

そんな光景を想像しました。

 

 

 

罪悪感という自分の頭にある悩みだけに執着せず、心を開けて世界と関わりたいものです。

 

「罪悪感を手放す」という選択をする

 

 

私達が感じる罪悪感のほとんどは人間関係の問題だと思います。ですが大切なことは、罪悪感を感じているのはあくまで自分だということです。

自分自身が「罪悪感を持つ」という選択をしているのです。

だから自分自身が「罪悪感を手放す」と選択すれば、手放すことができます。

 

自然に罪悪感を抱くのではなく、自分の考え方の癖が罪悪感を大きくしているのかな、と思いました。

「罪悪感を手放す」という覚悟を決めたいです。

 

もちろん言うのは簡単でも行うのは簡単なことではありません。

それでも償えない罪はなく、手放せない罪悪感はありません。

やるべきことをやる度に、心は少しずつ軽くなっていくはずです。

 

全部の言葉を太文字にしたいくらい、ありがたい言葉です。

 

 

自分が勝手に作った罪悪感に浸りこんで、現実的には何も行動できていない自分に気付かされした。

 

やるべきことをコツコツ積み重ねる行動によって、心を軽くしていきたいです。

 

罪悪感を持つのは、自分が傲慢なのかも?

 

最後に。

 

 

『罪悪感を手放す方法』を拝読し、引用に沿って感想を書いているうちに、思い浮かんだことを書きます。

 

「罪悪感を持つ人は謙虚な人だ」と思ってきましたが、ある意味では傲慢な考えをなさっているかもしれません。

 

人は助け合って生きています。

人の助けなしでは生きていけません。

 

人は迷惑をかけあいながら生きています。

誰にも迷惑をかけずに生きてはいけません。

 

自分の力だけでは生きていけない存在が人間です。

 

良い点もあれば、悪い点も持ちながら生きるのが人間です。

 

そこを、「自分は何に対しても正しくあろう、清くあろう、良い人であろう」と過度に思い続けると罪悪感が大きく膨らみます。

 

全てのことに正しく、清く、良いである人。

こんな人、どこを探してもいません。

みんな、どこか悪い点があり、どこか濁っているのが人間です。

そんなところを抱えながら生きているのが人間です。

 

自分の醜いところも、かけがえのない自分の大切な一部分です。

みにくい自分を無理やり自分から追い出す必要はありません。

 

常にきれいな自分であろうとするのが傲慢です。

自分に謙虚でありたいです。

自分を尊大に大きくする必要もなければ、卑下して小さく見せる必要もありません。

誰に対しても、自分自身に対しても、等身大の自分でありたいです。

 

 

 

なお、引用の元サイトにご関心を持たれた方は、こちらをクリック

(トップページ『ココロマニュアル』のURLは、http://kokoromanual.com/)

 

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6.認知症だった母への罪悪感

7.罪悪感を手放す具体的な方法

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6.認知症だった母への罪悪感

今回は、母の晩年を書きます。

 

母からの電話にびっくり

 

晩秋。

「天井に小さな大人が何人も歩いている」と母から電話がかかってきました。

父に電話を掛け直すと、「ここはどこ?なんで自分がこんなところにいるの?」、「家に帰りたい」とも母は言っていると知りました。

 

 

最初は、心配性の母のストレスが高じたのだろうと思いました。

しかし、ネットで調べると、母の言動は認知症の初期症状に限りなく近いものでした。

ショックでしたね。
足がすくんでしまいました。

慌てて実家に駆けつけました。

 

ミカンを投げつける母

 

物忘れ、怒りっぽい、今がいつかが分からない、ここがどこか分からない、家事ができない、テレビの映像の意味が分からない、、、、、。

診察を母に勧めるのですが、「自分は健康だ。自分のことを何だと思っているのか!」の一点張り。
しまいには、ミカンを私に投げつけます。
あの穏やかで優しい母がです。

いまから思えば、自分の変化に母は実は気付いており、不安だったからこそかたくなに診察を拒否したのでしょう。

 

 

初めて母が診察を受け入れてくれたときは、もう年が明けていました。

 

母は大病院は嫌がるので、小さな診療所に連れて行きました。

記憶テスト(?)と脳のMRI。

母を待合室に残し、私だけが医師に呼ばれました。

医師が言うには「記憶テスト結果は、健常者が10点ならば、お母さんは2点です」。

さらに、MRI画像を示しながら「脳のこの部分がかなり委縮しています」。

変かもしれませんが、この時点になっても認知症でなければいいと密かに期待している私でした。

しかし、記憶テスト結果とMRI画像を医師から突き付けられると、母が認知症だと認めざるを得ません。

辛かったです。

 

 

介護の日々

 

この時から、いわゆる介護が始まりました。

 

 

今から思えば、
「母が『安心して過ごせる』日常生活を送れるようにはどうしたら良いか」
を中心に考えればよかったのですね。

しかし、当時は、
「母の認知症の進行を遅らせ、『ちゃんとした言動』が続くようにはどうしたら良いか」
と考えてしまいました。

その結果、薬の服用を嫌がったりオムツ交換を嫌がったりする母に対して、私は叱ることが増えてきました。

母が嫌がる→私が叱る→母が混乱し不安になる→さらに嫌がる→私が叱る。
この悪循環ループに陥っていました。

先行きが分からない不安と共に、母をどうにもしてあげれない無力感と焦り。

この無力感に耐えられず、母を叱っていたのかもしれません。

母の不安な気持ちを忘れ、私のことを中心に考えていました。

 

数カ月が経ち、母に手を挙げるようになりました。

「何をするの!」

その母の声でハッと我に返り、母に「ごめん」と謝ります。

母は「いいえ、あなたは悪くはないの」と言い返します。

子供に手を挙げられ、それでも子供を許す母。

 

私、鬼です。

 

その間、私は罪悪感にとらわれていました。

母を安心させる対応をしていたら母はイキイキとした生活が出来たのではないか?

自分の母への対応は、逆に不安感を与えていただけではないか?

 

これではお互いがつぶれる。

 

介護施設に入居

 

母を施設に入れました。

最初は、自分が施設にいること自体に納得できず不安定な言動でしたが、次第に落ち着きを取り戻していきました。

二日に一回程度見舞う生活が数年続きました。

認知症が進むにつれ母は穏やかな表情になっていきました。

それが唯一の救いでした。

 

 

認知症には役割があった

 

母は若いころから心配性でした。

しかし、認知症になってからは心配事を忘れたかのようでした。

その意味では、心配することを忘れるために、認知症になったのかもしれません。

 

母のことを思い出すたびに、自分の罪悪感が首をもたげます。

でも、与えられた状況の中で母によかれと思い頑張ったこともあります。

罪悪感を持ちながらも、一方で自分を慰めたいと思います。

 

ご自身を責め続けることに疲れる方がいらっしゃいましたら、
このサイトの固定ページ「1「自分自身に優しくする」(Self-Kindness)」をご覧願います。

 

 

 

 

 

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5.母を亡くしました

6.認知症だった母への罪悪感

 

 

 

5.母を亡くしました

こんにちは。

最近、母を亡くしました。

苦労して私たち子どもを育ててくれた母です。

施設と病院との往復を数回繰り返し、最後は病院のベッドで息を引き取りました。

 

 

母が死んだら、うろたえて立てなくなるだろう

 

高齢の母が亡くなる時のことを、何年も思い描いていました。

その日が来ることを怖れていました。

自分は取り乱してしまい、平常を保つことができないと思っていました。

 

ある日、医師から「そろそろ覚悟をしておいてください」と言われました。

ショックで、レントゲンの写真を見つめることが出来ず、医師の顔を見ることさえできませんでした。

どのように自宅まで帰ったのか思い出せないくらいです。

 

 

それから一週間。

医師から「すぐに病院に来てください」との電話が携帯電話に入りました。

母は荒い息をしていました。

 

夕刻。

母の息が静かになり、数回息が止まったりまた息を始めたりしました。

そして、数分後に胸の動きがとまり、再度息をすることはありませんでした。

 

不思議なのですが、落ち着いていました

 

 

いやー、自分でも奇妙だと思ったのですが、母の死から今まで、心に波風が立たず静かに過ごしました。

大きな悲嘆と空虚感、更に母を上手く介護できなかったという罪悪感に取り込まれてうろたえると思っていた自分でしたが、穏やかな気持ちで母との別れができました。

 

 

さらに、通夜や葬儀も喪主として滞りなく終えることができました。

そして、初七日の法要が過ぎても、心は比較的穏やかです。

もちろん、気持ちが母のことが頭と心全体を占め、車のキーが見当たらず探しまくり車体の上で一日経ってから見つけたなど、いくつもの物忘れと動揺がありました。

セレモニホールへ車で向かうつもりが、全然別の方向へ走らせたこともありました。

 

誰でも例外なく最後を迎えること、残された者は悲しいもの

 

何故、私は穏やかに母の最期を迎え入れ、その後も落ち着いているのか?

自分なりに思いますのは、「生きとし生けるもの、誰もがいつかは亡くなるということ」「残された家族はだれしも寂しいもの、そして動揺するもの」ということは、人類共通のものであるということを受け入れていたからではないかと推察します。

このことが、「自分も人も共通」(Common Humanity)ということなのかもしれません。

「自分も人も共通」(Common Humanity)については、固定ページの2をご覧願います。
こちらをクリック

 

 

自分に沸いてくる感情を否定せず受け止めること

 

母の症状が芳しくなく心配なこと、母が亡くなり動揺したことを、私はショートメールで遠くに住む知人に伝えていました。

「自分が平常心を失なったら、電話するよ。その時は話を聞いてね」という文面すらメール送信していました。

いい歳をした大人がそこまで弱音を吐くかと思われるかもしれません。

また、母の生前からそんなメールを送るのはいかがなものかとお感じの方もいらっしゃることでしょう。

でも、自分は自分だけで母の病状と死を受け止めることが出来ないと予測していました。

自分は情けないほど子供っぽく弱い人間です。

それが自分です。

そんな自分のありのままを受け入れ、時には人さまにさらけ出すことが良かったのだと思います。

 

 

 

目の前のことだけを見て、
今できることだけをする

 

通夜・納棺・葬儀・お骨拾い・参列者への挨拶・初七日の法要は、慌ただしいもので、決めなければいけないことが多くあっという間に過ぎていきました。

儀式は全てが初めてのこと。

先のことは何も考えず、目の前のことだけを考えて行動していました。

今できることだけに心を傾けて行動していました。

 

このことは、「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)ことだと後で思いました。

「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)については、固定ページの3をご覧願います。
こちらをクリック

 

 

 

 

最後に。

 

「悲しみや悔いは、死別からしばらく経ってふいに訪れるものだ」と伺いますので、私の心もこの先どうなるか今は分かりません。

急に落ち込むこともあるかもしれません。

その時は落ち込む自分を否定せず、しばらく落ち込もうと思っています。

 

 

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4.「棚上げ」という魔法

5.母を亡くしました

 

4.「棚上げ」という魔法

こんにちは。

5月。
若葉のころですね。
緑色と一言で言っても、いろいろな緑色があります。
そんな緑が幾重にも重なっている風景を見かけると、すがすがしい気持ちになります。

さて、今回は「棚上げ」という言葉について、思うところを書きます。

 

「棚上げ」とは?

 

デジタル大辞泉によりますと、

 需給の調節などのため、一時商品を市場へ出さないこと。「棚上げ株」
 問題を一時的に未処理・未解決のままにしておくこと。「法案を棚上げする」

という意味だそうです。

私が注目しますのは、2番目の意味です。

「棚上げ」とは、問題を一時的に未処理・未解決のままにしておくこと。

 

課題や心配で心がつぶれそうなときに。

 

 

・仕事で解決しなければいけないことがあるのに、今すぐには身動きできない。

・次の面接が控えているけれど、他のことが忙しくて頭が回らない。

・老いる親の介護を控えているが、考えれば考えるほど不安になってくる。

・町内の来年度の行事計画を立てなければいけないのに、取り組む時間がない。

・あれもこれもやらなきゃいけないことが山積みで、何から手を付けたら良いのか分からない。

 

色々と課題が尽きませんね。

 

私もアレコレとやらねばいけないこと、心配事がたくさんあって、頭がパンクしそうな時があります。

 

こんな時に頭と心をすっきりさせる魔法の言葉が「棚上げ」です。

 

今どうしようもないことは、棚上げしましょう。

 

やるべきことがある。

解決すべきことがある。

幾つもの仕事と心配が重なる。

 

こんな時って焦りますし、うまく解決できるかどうか不安ですね。

 

 

ここで登場するのが「棚上げ」です。

「棚上げ」とは、やるべきことや解決すべきことを「無くす」という意味ではありません。

無くしはしないけれども、今すぐ解決できないことは、頭と心の中から取り出して、別室にある棚の上に置いておくことです。

そして、当面の間、棚の上に置いたものをあえて見ないようにするのです。

 

この棚上げによって、頭も心に空きスペースが出来ます。

空きスペースで、今できる目の前のことだけに集中します。

 

今できることが済んだら、棚の上を見てみます。

そして棚の上に、今すべき必要なものがあったら、棚から降ろして淡々と取り組めばいいのです。

 

この棚上げの癖がつきましたら、気持ちが軽くなりますよ~。

 

 

さらに、驚くことに、棚上げしていた事柄が無くなっていることさえ多いものです。

あるいは棚の上に何かがあっても、自分にとって前よりも小さくなって見えるのです。

 

 

不思議ですね。

 

私、この「棚上げ」を覚えてから余裕が生まれて、パニックにならないようになりました。

 

是非ともお試しください。

 

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3.今を生きる

こんにちは。

皆さんがお住まいの地域の天気、いかがでしょうか?

私が住んでいますところは、汗ばむ日もあれば、朝方は肌寒くて暖房を入れるような日が繰り返す気候が続いています。

どうぞご自愛なさってくださいませ。

 

さて、今回は「今を生きる」をテーマに思うところを述べたいと思います。

次の画像は、私が大好きな洋画『今を生きる』です。

 

(画像引用:アマゾン)

 

過去のことを悔いる私です。

 

とにかく、私、過去に恥ずかしいことや失敗が多いのです。

ですので、過去を思い出すと、「ワッ!!!」と声をあげそうになります。

実は、一人の時や車の中では、実際に大声をあげることもあります。

 

過去のことが原因となり今にその結果が表れていることがあり、悔いて悩んいます。

可能ならば、過去に戻ってやり直したいです。

 

 

 

未来のことを心配する私です。

 

家族のこと、仕事のこと、自分の心身のこと、お金のこと、、、。

 

これさえ上手くいけば、どんなに心が晴れるだろうか。

これさえ何ごともなければ、心の霧が消えるのに。

 

いつも心配と不安が尽きません。

 

そんな時に、心配と不安から逃れようとすればするほど、心配と不安が自分を追いかけてくるようです。

 

 

過去は過ぎ去り、
未来はまだ来ない。
目の前には今があるだけ。

 

過去を悔い、未来を心配するときに、励みになる言葉を知りました。

標語のようなことが書かれてある日めくりカレンダーを見たのです。

『過去は既に過ぎ去ったから、後悔しても仕方がないです。
未来はまだ来ていないから、どうなるか分かりません。
目の前にあるのは今だけ。
今だけを一生懸命に生きましょう』

 

この言葉を初めて読んだ時、急に光が差したように感じたことを覚えています。

 

 

そうか、今、目の前には今しかないんだ。

取り返せない過去を悩んで、今を無駄に過ごしていたんだ。

どうなるか分からない未来を心配して、今を疎かにしていたんだ。

 

 

過去は取り消せないから、どんな過去も引き受けよう。

未来がどうであっても、その時になってから考えよう。

 

今は今しかない!

今できることだけをやろう!

 

後悔の念にとらわれたとき、

未来の不安にとらわれたとき、

「今、ここ」を思い出します。

今ここで生きようと思います。

 

 

 

 

今も大きな心配事が三つあります。

 

心配と不安に心が吸い込まれるような気がします。

心が不安でいっぱいになり、目の前のことが消えてしまいそうになります。

悩みにとらわれて身体が動かず、小さなことさえも行動できないことがあります。

 

その時には、
「今だけを大切に」と自分に言い聞かせることで、
自分を取り戻しています。

その時には、
深呼吸をします。

その時には、
自分だけでなく、世界の誰かも同じく悩んでいるんだ、
と想像することにしています。

 

今から。

ここから。

 

 

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2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

こんにちは。

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしたでしょうか?

旅行に出られた方、映画鑑賞をなさった方、古里に帰省された方、お家でのんびりとテレビを見続けた方。
色々な過ごし方をなさったことでしょう。

 

「今この場所にいることの意味」について書きます。

 

今、私はここにいます。

今、私はこの今を生きています。

何故、自分がここにいるのか。
別の場所で生活している可能性はなかったのか。

今とは別の仕事を持ち、今とは違う家族と過ごし、他の地域で住んでいる自分。
そんな自分がいたのではないかと思い描くことがあります。

今回は、今自分がここにいることの意味について考えてみました。

 

憧れの仕事と、実際の仕事について。

 

若いころ、都会で活躍するかつての仲間たちがうらやましくてなりませんでした。

知り合いはマスコミ業界に就職した人が多かったです。
彼らがニュース番組でレポートする姿をブラウン管から眺めてはため息をつき、新聞社や雑誌社で働く姿を思い描いては憧れていました。
(ブラウン管って、ご存知ですか。テレビの液晶のことです)

 

 

当時、私は一般的に地味だと言われる仕事をしておりました。
朝から晩まで、机に座り誰とも話さずコツコツとそろばんを弾いていました。

これが退屈で退屈で。
退屈と言っても、息をつく暇がないほど一生懸命働いているのですよ。
事務が嫌いということではなく、やり方が決めっていて誰がやっても同じ結果しかでない仕事、自分の創意工夫を出す余地がない仕事にやりがいを感じることが出来なかったです。

そんな毎日を送っていましたので、イキイキとして華やかそうな職場で働く連中が眩しかったのです。

正直言うと、連中が眩しいというよりも、自分自身が情けなかったです。
自分の夢を放棄してしまったような思いにとらわれていました。

どこかに自分を活かせる仕事があるはずだ。
でも、具体的に自分を活かす仕事は何なのかは全く分かりませんでした。
分からないまま、「ここに自分がいてもいいのだろうか?」とふわふわした思いでいました。

そのうちに、オフコン化が職場全体で始まりました。
今はパソコンが中心ですが、当時はパソコンの機能と容量が低かったのです。
システムエンジニア(SE)の方と業務内容の打ち合わせをする日々が続きました。

これは私にとっては楽しい仕事でした。
初めてイキイキとしました。

 

 

この職場では、幾つかの部署を渡り歩きました。
やりがいを感じることもありました。

とはいっても、困難なことがあるたびに、「こんな道を選んだから、こんなに嫌なことに出会って苦しむんだ」と思っていました。

過去の選択を後悔し、現在を否定することで、今の困難から目をそむけていたと思います。

そして、そのうちに退職をして、その後いくつかの職場を体験しました。

やりがいを持てた時もあれば、ただただ辛い時もありました。

 

今までの仕事を振り返って、自分の選択が自分にとって良かったのかどうかは分かりません。

心のどこかに、別の道を選んでいたら、今とは違い、もっとイキイキとした人生を送れていたのではないかという気持ちがあることは否定できません。

 

 

今は、これまでの仕事とは全く違う畑違いの仕事に就いています。
知識も体験もないので、0からのスタートでした。

 

今のこの職場になぜ自分がいるのかを考えてみました。

考えた結果、

奇妙に思われるかもしれませんが、
若いころに選んだ仕事が何であっても、その後転職した仕事が何であっても、結局は今やっているこの職場にたどり着いたのではないかと感じました。
大仰ですが、
今までの体験がこの職場に私を向かわせたのではないかと思います。

 

今ここにいるとは?

 

今いる職場、今いる家庭、今いる場所、今いる環境はいかがでしょうか?

今の状況に対して、満足していない方、辛い思いの渦中にいる方もいらっしゃることでしょう。

困難な状況を打破すべく、現実的な作戦(?)を真剣に考えている方もいらっしゃることと思います。

 

私は、「今、自分がここにいることには何か意味がある」と感じています。

だからといって、「この場所にずっといなければいけない」とは考えていません。
可能ならば、環境を替えてみることもありです。

でも、今がどんな環境であっても、
「どこか別のところが本来の自分がいる場所だ」という思いにとらわれて「今、ここ」を疎かにすることは止めたいと思います。

今の環境にいても、環境を替えても、「今、ここ」という意識を大切にしたいです。

 

『病者の祈り』
(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一人の患者の詩)

 

 

自分が抱える困難があまりにも重く、自分が無力だと感じることが時々あります。

そんな時に、「よし、弱い自分でもいいかな」という気にさせてくれる詩があります。

ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一人の患者の詩です。

詩の中の「神」という言葉に違和感をお感じになる方は、「人に」や「社会に」や「家族に」と読み替えてもよろしいかと思います。

 

『病者の祈り』

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
心の中を言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。

 

英語の原文

 

【 The Answer to All My Prayers 】
━ A Creed for Those Who Have Suffered ━

 

I asked God for strength, that I might achieve,

I was made weak, that I might learn humbly to obey.

 

I asked for health, that I might do greater things,

I was given infirmity, that I might do better things.

 

I asked for riches, that I might be happy,

I was given poverty, that I might be wise.

 

I asked for power, that I might have the praise of men,

I was given weakness, that I might feel the need of God.

 

I asked for all things, that I might enjoy life,

I was given life, that I might enjoy all things.

 

I got nothing that I asked for —-

but everything I had hoped for.

 

Almost despite myself,
my unspoken prayers were answered.

 

I am among all men, most richly blessed!

 

この詩は、「今のあなたでいいから、自分を大切にしてくだだい」というセルフコンパッションの考え方に通じるものがあると思います。

 

ニューヨーク・リハビリテーション研究所
待合室の壁に飾られた銘板より
(引用 https://blog.goo.ne.jp/true-vine/e/f70d7be32b35224d55bfcce80dcd1b76)

 

 

今までの投稿一覧

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』