5.母を亡くしました

こんにちは。

最近、母を亡くしました。

苦労して私たち子どもを育ててくれた母です。

施設と病院との往復を数回繰り返し、最後は病院のベッドで息を引き取りました。

 

 

母が死んだら、うろたえて立てなくなるだろう

 

近いうちに母が亡くなる時のことを、何年も思い続けていました。

その日が来ることを怖れていました。

自分は取り乱してしまい、平常を保つことができないと思っていました。

 

ある日、医師から「そろそろ覚悟をしておいてください」と言われました。

ショックで、レントゲンの写真を見つめることが出来ず、医師の顔を見ることさえできませんでした。

どのように自宅まで帰ったのか思い出せないくらいです。

 

 

それから一週間。

医師から「すぐに病院に来てください」との電話が携帯電話に入りました。

母は荒い息をしていました。

 

夕刻。

母の息が静かになり、数回息が止まったりまた息を始めたりしました。

そして、数分後に胸の動きがとまり、再度息をすることはありませんでした。

 

不思議なのですが、落ち着いていました

 

 

いやー、自分でも奇妙だと思ったのですが、母の死から今まで、心に波風が立たず静かに過ごしました。

大きな悲嘆と空虚感、更に母を上手く介護できなかったという罪悪感に取り込まれてうろたえると思っていた自分でしたが、穏やかな気持ちで母との別れができました。

 

 

さらに、通夜や葬儀も喪主として滞りなく終えることができました。

そして、初七日の法要が過ぎても、心は比較的穏やかです。

もちろん、気持ちが母のことが頭と心全体を占め、車のキーが見当たらず探しまくり車体の上で一日経ってから見つけたなど、いくつもの物忘れと動揺がありました。

セレモニホールへ車で向かうつもりが、全然別の方向へ走らせたこともありました。

 

誰でも例外なく最後を迎えること、残された者は悲しいもの

 

何故、私は穏やかに母の最期を迎え入れ、その後も落ち着いているのか?

自分なりに思いますのは、「生きとし生けるもの、誰もがいつかは亡くなるということ」「残された家族はだれしも寂しいもの、そして動揺するもの」ということは、人類共通のものであるということを受け入れていたからではないかと推察します。

このことが、「自分も人も共通」(Common Humanity)ということなのかもしれません。

「自分も人も共通」(Common Humanity)については、固定ページの2をご覧願います。

 

 

自分に沸いてくる感情を否定せず受け止めること

 

母の症状が芳しくなく心配なこと、母が亡くなり動揺したことを、私はショートメールで遠くに住む知人に伝えていました。

「自分が平常心を失なったら、電話するよ。その時は話を聞いてね」という文面すらメール送信していました。

いい歳をした大人がそこまで弱音を吐くかと思われるかもしれません。

また、母の生前からそんなメールを送るのはいかがなものかとお感じの方もいらっしゃることでしょう。

でも、自分は自分だけで母の病状と死を受け止めることが出来ないと予測していました。

自分は情けないほど子供っぽく弱い人間です。

それが自分です。

そんな自分のありのままを受け入れ、時には人さまにさらけ出すことが良かったのだと思います。

こんな時は、誰も堂々とできませんものね。

 

 

目の前のことだけを見て、
今できることだけをする

 

通夜・納棺・葬儀・お骨拾い・参列者への挨拶・初七日の法要は、慌ただしいもので、決めなければいけないことが多くあっという間に過ぎていきました。

儀式は全てが初めてのこと。

先のことは何も考えず、目の前のことだけを考えて行動していました。

今できることだけに心を傾けて行動していました。

 

このことは、「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)ことだと後で思いました。

「ありのままの自分を観る」(Mindfulness)については、固定ページの3をご覧願います。

 

 

 

最後に。

 

悲しみや悔いはしばらく経ってからふいに訪れる方もいらしゃると伺いますので、私の心もこの先どうなるか今は分かりません。

急に落ち込むこともあるかもしれません。

その時は落ち込む自分を否定せず、しばらく落ち込もうと思っています。

 

 

4.「棚上げ」という魔法

こんにちは。

5月。
若葉のころですね。
緑色と一言で言っても、いろいろな緑色があります。
そんな緑が幾重にも重なっている風景を見かけると、すがすがしい気持ちになります。

さて、今回は「棚上げ」という言葉について、思うところを書きます。

 

「棚上げ」とは?

 

デジタル大辞泉によりますと、

 需給の調節などのため、一時商品を市場へ出さないこと。「棚上げ株」
 問題を一時的に未処理・未解決のままにしておくこと。「法案を棚上げする」

という意味だそうです。

私が注目しますのは、2番目の意味です。

「棚上げ」とは、問題を一時的に未処理・未解決のままにしておくこと。

 

課題や心配で心がつぶれそうなとき

 

 

・仕事で解決しなければいけないことがあるのに、今すぐには身動きできない。

・次の面接が控えているけれど、他のことが忙しくて頭が回らない。

・老いる親の介護を控えているが、考えれば考えるほど不安になってくる。

・町内の来年度の行事計画を立てなければいけないのに、取り組む時間がない。

・あれもこれもやらなきゃいけないことが山積みで、何から手を付けたら良いのか分からない。

 

色々と課題が尽きませんね。

 

私もアレコレとやらねばいけないこと、心配事がたくさんあって、頭がパンクしそうな時があります。

 

こんな時に頭と心をすっきりさせる魔法の言葉が「棚上げ」です。

 

今どうしようもないことは、棚上げしましょう。

 

やるべきことがある。

解決すべきことがある。

幾つもの仕事と心配が重なる。

 

こんな時って焦りますし、うまく解決できるかどうか不安ですね。

 

 

ここで登場するのが「棚上げ」です。

「棚上げ」とは、やるべきことや解決すべきことを「無くす」という意味ではありません。

無くしはしないけれども、今すぐ解決できないことは、頭と心の中から取り出して、別室にある棚の上に置いておくことです。

そして、当面の間、棚の上に置いたものをあえて見ないようにするのです。

 

この棚上げによって、頭も心に空きスペースが出来ます。

空きスペースで、今できる目の前のことだけに集中します。

 

今できることが済んだら、棚の上を見てみます。

そして棚の上に、今すべき必要なものがあったら、棚から降ろして淡々と取り組めばいいのです。

 

この棚上げの癖がつきましたら、気持ちが軽くなりますよ~。

 

 

さらに、驚くことに、棚上げしていた事柄が無くなっていることさえ多いものです。

あるいは棚の上に何かがあっても、自分にとって前よりも小さくなって見えるのです。

 

 

不思議ですね。

 

私、この「棚上げ」を覚えてから余裕が生まれて、パニックにならないようになりました。

 

是非ともお試しください。

 

 

 

 

3.今を生きる

こんにちは。

皆さんがお住まいの地域の天気、いかがでしょうか?

私が住んでいますところは、汗ばむ日もあれば、朝方は肌寒くて暖房を入れるような日が繰り返す気候が続いています。

どうぞご自愛なさってくださいませ。

 

さて、今回は「今を生きる」をテーマに思うところを述べたいと思います。

次の画像は、私が大好きな洋画『今を生きる』です。

 

(画像引用:アマゾン)

 

過去のことを悔いる私です。

 

とにかく、私、過去に恥ずかしいことや失敗が多いのです。

ですので、過去を思い出すと、「ワッ!!!」と声をあげそうになります。

実は、一人の時や車の中では、実際に大声をあげることもあります。

 

過去のことが原因となり今にその結果が表れていることがあり、悔いて悩んいます。

可能ならば、過去に戻ってやり直したいです。

 

 

 

未来のことを心配する私です。

 

家族のこと、仕事のこと、自分の心身のこと、お金のこと、、、。

 

これさえ上手くいけば、どんなに心が晴れるだろうか。

これさえ何ごともなければ、心の霧が消えるのに。

 

いつも心配と不安が尽きません。

 

そんな時に、心配と不安から逃れようとすればするほど、心配と不安が自分を追いかけてくるようです。

 

 

過去は過ぎ去り、
未来はまだ来ない。
目の前には今があるだけ。

 

過去を悔い、未来を心配するときに、励みになる言葉を知りました。

標語のようなことが書かれてある日めくりカレンダーを見たのです。

『過去は既に過ぎ去ったから、後悔しても仕方がないです。
未来はまだ来ていないから、どうなるか分かりません。
目の前にあるのは今だけ。
今だけを一生懸命に生きましょう』

 

この言葉を初めて読んだ時、急に光が差したように感じたことを覚えています。

 

 

そうか、今、目の前には今しかないんだ。

取り返せない過去を悩んで、今を無駄に過ごしていたんだ。

どうなるか分からない未来を心配して、今を疎かにしていたんだ。

 

 

過去は取り消せないから、どんな過去も引き受けよう。

未来がどうであっても、その時になってから考えよう。

 

今は今しかない!

今できることだけをやろう!

 

後悔の念にとらわれたとき、

未来の不安にとらわれたとき、

「今、ここ」を思い出します。

今ここで生きようと思います。

 

 

 

 

今も大きな心配事が三つあります。

 

心配と不安に心が吸い込まれるような気がします。

心が不安でいっぱいになり、目の前のことが消えてしまいそうになります。

悩みにとらわれて身体が動かず、小さなことさえも行動できないことがあります。

 

その時には、
「今だけを大切に」と自分に言い聞かせることで、
自分を取り戻しています。

その時には、
深呼吸をします。

その時には、
自分だけでなく、世界の誰かも同じく悩んでいるんだ、
と想像することにしています。

 

今から。

ここから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.私が今ここにいる意味と『病者の祈り』

こんにちは。

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしたでしょうか?

旅行に出られた方、映画鑑賞をなさった方、古里に帰省された方、お家でのんびりとテレビを見続けた方。
色々な過ごし方をなさったことでしょう。

 

「今この場所にいることの意味」について書いてみたいと思います。

 

今、私はここにいます。

今、私はこの今を生きています。

何故、自分がここにいるのか。
別の場所で生活している可能性はなかったのか。

今とは別の仕事を持ち、今とは違う家族と過ごし、他の地域で住んでいる自分。
そんな自分がいたのではないかと思い描くことがあります。

今回は、今自分がここにいることの意味について考えてみました。

 

憧れの仕事と、実際の仕事について。

 

若いころ、都会で活躍するかつての仲間たちがうらやましくてなりませんでした。

知り合いはマスコミ業界に就職した人が多かったです。
彼らがニュース番組でレポートする姿をブラウン管から眺めてはため息をつき、新聞社や雑誌社で働く姿を思い描いては憧れていました。
(ブラウン管って、ご存知ですか。テレビの液晶のことです)

 

 

当時、私は一般的に地味だと言われる仕事をしておりました。
朝から晩まで、机に座り誰とも話さずコツコツとそろばんを弾いていました。

これが退屈で退屈で。
退屈と言っても、息をつく暇がないほど一生懸命働いているのですよ。
事務が嫌いということではなく、やり方が決めっていて誰がやっても同じ結果しかでない仕事、自分の創意工夫を出す余地がない仕事にやりがいを感じることが出来なかったです。

そんな毎日を送っていましたので、イキイキとして華やかそうな職場で働く連中が眩しかったのです。

正直言うと、連中が眩しいというよりも、自分自身が情けなかったです。
自分の夢を放棄してしまったような思いにとらわれていました。

どこかに自分を活かせる仕事があるはずだ。
でも、具体的に自分を活かす仕事は何なのかは全く分かりませんでした。
分からないまま、「ここに自分がいてもいいのだろうか?」とふわふわした思いでいました。

そのうちに、オフコン化が職場全体で始まりました。
今はパソコンが中心ですが、当時はパソコンの機能と容量が低かったのです。
システムエンジニア(SE)の方と業務内容の打ち合わせをする日々が続きました。

これは私にとっては楽しい仕事でした。
初めてイキイキとしました。

 

 

この職場では、幾つかの部署を渡り歩きました。
やりがいを感じることもありました。

とはいっても、困難なことがあるたびに、「こんな道を選んだから、こんなに嫌なことに出会って苦しむんだ」と思っていました。

過去の選択を後悔し、現在を否定することで、今の困難から目をそむけていたと思います。

そして、そのうちに退職をして、その後いくつかの職場を体験しました。

やりがいを持てた時もあれば、ただただ辛い時もありました。

 

今までの仕事を振り返って、自分の選択が自分にとって良かったのかどうかは分かりません。

心のどこかに、別の道を選んでいたら、今とは違い、もっとイキイキとした人生を送れていたのではないかという気持ちがあることは否定できません。

 

 

今は、これまでの仕事とは全く違う畑違いの仕事に就いています。
知識も体験もないので、0からのスタートでした。

 

今のこの職場になぜ自分がいるのかを考えてみました。

考えた結果、

奇妙に思われるかもしれませんが、
若いころに選んだ仕事が何であっても、その後転職した仕事が何であっても、結局は今やっているこの職場にたどり着いたのではないかと感じました。
大仰ですが、
今までの体験がこの職場に私を向かわせたのではないかと思います。

 

今ここにいるとは?

 

今いる職場、今いる家庭、今いる場所、今いる環境はいかがでしょうか?

今の状況に対して、満足していない方、辛い思いの渦中にいる方もいらっしゃることでしょう。

困難な状況を打破すべく、現実的な作戦(?)を真剣に考えている方もいらっしゃることと思います。

 

私は、「今、自分がここにいることには何か意味がある」と感じています。

だからといって、「この場所にずっといなければいけない」とは考えていません。
可能ならば、環境を替えてみることもありです。

でも、どんな環境であっても、「ここは違う」「どこか別のところが本来自分がいる場所だ」と思いながら「今、ここ」を疎かにすることは止めたいと思います。

今の環境にいても、環境を替えても、「今、ここ」という意識を大切にしたいです。

 

『病者の祈り』
(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一人の患者の詩)

 

 

自分が抱える困難があまりにも重く、自分が無力だと感じることが時々あります。

そんな時に、「よし、弱い自分でもいいかな」という気にさせてくれる詩があります。

ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一人の患者の詩です。

詩の中の「神」という言葉に違和感をお感じになる方は、「人に」や「社会に」や「家族に」と読み替えてもよろしいかと思います。

 

『病者の祈り』

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
心の中を言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。

 

英語の原文

 

【 The Answer to All My Prayers 】
━ A Creed for Those Who Have Suffered ━

 

I asked God for strength, that I might achieve,

I was made weak, that I might learn humbly to obey.

 

I asked for health, that I might do greater things,

I was given infirmity, that I might do better things.

 

I asked for riches, that I might be happy,

I was given poverty, that I might be wise.

 

I asked for power, that I might have the praise of men,

I was given weakness, that I might feel the need of God.

 

I asked for all things, that I might enjoy life,

I was given life, that I might enjoy all things.

 

I got nothing that I asked for —-

but everything I had hoped for.

 

Almost despite myself,
my unspoken prayers were answered.

 

I am among all men, most richly blessed!

 

この詩は、「今のあなたでいいから、自分を大切にしてくだだい」というセルフコンパッションの考え方に通じるものがあると思います。

 

ニューヨーク・リハビリテーション研究所
待合室の壁に飾られた銘板より
(引用 https://blog.goo.ne.jp/true-vine/e/f70d7be32b35224d55bfcce80dcd1b76)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.怒りとの良い付き合い方とマインドフルネス

こんにちは。

新緑が楽しみな季節となりました。

 

 

 

今回は、怒りとの良い付き合い方について考えたいと思います。

 

私は自分の怒りを収めることが出来ず、自分自身と物にぶつけていました。

ゲームセンターで射撃ゲームばかりしていた時もあります。

物をたくさん壊しました。

携帯を折り、パソコンの画面をなぐりつけ、壁に穴を開けていました。

 

怒りに取り込まれていた時期は、怒りが沸き起こる仕組みを考える余裕がありません。

怒りのエネルギーは莫大です。
ただただ怒り、くたくたになるだけでした。

 

 

今になって考えますと、こんな時に怒りが沸いたのだと思います。

1.人に何かを期待し、人が期待通りにしてくれないとき。

2.自分の努力が認められず、叱責されるとき。

 

今は怒ることが少なくなりました。

1については、「人を変えることはできない」ということを理解しました。

ですので、人に期待しません。
人は人、自分は自分だと割り切っています。
人に期待しない、割り切るといいますと冷たいようですが、そういうことはありません。
「人はこうあるべきだ」とか「私に対して、人は〇〇のように接するべきだ」とは思わなくなったということです。
換言すると、人のありのままの姿を受け入れて、それに対して批評も分析もしなくなったということです。

 

2については、「人の評価を過大に感じてはいけない」ということを理解しました。

ですので、人からマイナスの評価をされても「仕方ないな」と思うようにしています。
人から悪く言われても、それは人の判断であり、私の判断ではありませんので気にしません。
「気にしません」は言い過ぎですね。
実は凹みます。

でも、凹み方が少なくなりました。
そして、回復が早くなりました。
人から何を言われようが、自分が自分の人生の主人公ですね。
自分の人生を人からの評価に合わす必要はありません。

 

以前、ダライ・ラマ氏の講演を聴いたことがあります。

 

質疑応答の時間に、お若い方がダライ・ラマ氏に尋ねました。
「ダライ・ラマさんも怒ることがあるのですか?」。

ダライ・ラマ氏はこのように答えました。
「もちろん怒ることはあります。
しかし、怒りは波のようなものだと私は理解しています。
波は押し寄せたり、引いたりを繰り返しますね。
私は怒っていると感じとるだけで、怒りを継続させることはありません」。

 

 

この言葉を聴いて、私はホッとしました。

怒りという気持ちを持ってもいいんだということに気付いたからです。
それまでは、怒るという自分がなさけなかったのです。

怒りは持っても良いけれども、その怒りをどのように受け止めるか、どのように処理するかが大切なのですね。

この気付きは、マインドフルネスの考え方と似ていると思います。
自分の感情を否定せずに、ありのまま受け入れることをマインドフルネスは説きます。